水縹のメロディ

2-2

「でも、あなたが濡れてしまいます」
「近くに車停めてるから」

 それじゃ私も乗せてください、と言いかけて、夏紀はあわててそれを飲みこんだ。
 ほんの少し話しただけの相手の車に乗るなんて、どう考えても危険だ。

「信用されてないな、俺。今、車に乗れないって思ったね? ま、どっちみち行くところあるから乗せないけど」
「……思ってません」

 青年は夏紀の呟きに短く笑うと、視線を遠くにやった。

「俺のこと、ハルって呼んで。あ──あんた、ピアノ弾ける?」
「え? ピアノですか?」

 唐突な質問にどちらとも答えずにいると、ハルは今日はじめての笑顔を夏紀に向けた。

「こないだ会ったとき、ものすごく落ち込んでるように見えたから。もし弾けるなら、弾ける人募集してるカフェがあるから、行ってみたら?」
「カフェ? どこですか?」
「ハレノヒカフェ。知ってる? 詳しいことは、その辺の掲示板にポスター貼ってるから、見たら?」

 街の掲示板はどこにあっただろうか、と考えている間に、ハルは雨の中へ走り出してしまっていた。

 跳ねる雨粒が音符に見えて、夏紀は少し楽しくなった。

 ハルが置いていった傘を借りて、夏紀は駅を出た。
 途中、掲示板がある場所を通ったけれど、雨が激しくなってきたので立ち止まるのはやめた。前を通る時にちらっとだけ見て、『ピアノ弾ける方を募集しています!』という文字だけ見えた。

「あらやだ夏紀、また男物の傘?」

 家に帰ると玄関に明美がいた。彼女も帰宅したばかりで、傘を広げているところだった。

「うん……親切な人が貸してくれて」
「こないだの傘も借りたままなのに。どこに住んでるか聞いたの?」
「ううん……でも、また会えそうな気がする」

 本当に、そんな気がしていた。

 もちろん、まだハルという名前くらいしか情報が増えていないし、絶対会えるという保証もない。けれど彼の妙な自信が、また会える可能性を高く思わせた。

 久々に会ったハルは、夏紀の記憶通りのイケメンだった。もし年齢が近いのなら、彼と恋人になりたいとも思う。かけられる言葉は冷たいけれど、気遣いは優しかった。甘い言葉ばかりをかけられるよりは、楽しく過ごせるかもしれない。

 もちろんそれは本気ではない。イケメンは好きではあるけれど、かっこ良すぎると気後れしてしまうから、本当は受け付けない。

 いつもなら自室に戻った後はオカリナの音色を待っていたけれど、この日はそれを待つことを忘れていた。もちろん、雨音が大きいとはいえ夜更けに音を鳴らすのは迷惑になるけれど。

 夏紀とハルの歯車が、静かに回り始めた。
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