振り解いて、世界
とけあう夜


 広くてガランとしたリビングは、ちっとも温かみがなくてなぜだろうとふと疑問を抱いた。
 セレンの家を出て行ったのはたったの2日前なのに、何となく雰囲気が変わったように思う。
 もう二度と来ることはないだろうと泣きながら出て行った分、久しぶりに感じているからだろうか。
 猫脚ソファに腰掛けながら、隣りに座るセレンをこっそりと覗き見た。

 セレンは、整った横顔を静かにこちらに向け、ソファに深く身を預けている。
 相変わらず捕らえ所のない涼しい表情を浮かべているけど、伏せられた長いまつ毛が憂いを帯びているように見えなくもない。
 物思いに耽っている―――のかは分からないものの、気だるげに腕を組み、スラリとした脚を組み替えるセレンからは、いつにも増して色香が漂っている。
 黒のニットセーターにグレーのテーパードパンツといった至ってシンプルな格好で、どうしてこんなにオトナな雰囲気が醸し出せるんだろう。
 観察を兼ねてじっと見つめていると、わたしの視線が気になったのか、セレンは溜め息混じりに口を開いた。

「酔いは覚めた?」
「あ、えっと……うん」

 マホガニーのローテーブルに置かれてある、冷たい水の入ったチェイサーグラスをちらりと見やった。
 酔いならとっくの昔に覚めている。
 セレンの家まで来る途中、車の中でずっと沈黙が続いていた時も、どうやってやり過ごそうかと考えていたくらいに頭はすっきりとしていた。
 どうせなら、まだ酔っていた方がもう少しリラックスできただろうけど。

「心配したよ」

 セレンの落ち着いた低い声にドキリと鼓動が跳ねる。
 隣に視線を戻すと、セレンはわたしを見つめながら弱々しく微笑んだ。
 いつも余裕そうにしているところしか見たことがなかっただけに、思わず声が出そうになる。

 突然、家を出て行って電話にも出ないで、こんなことになって。
 わたしが勝手なことばかりしている間、セレンは本当に心配してくれていたんだろう。
 申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
 わたしは、お互いの距離を詰めるようにして座り直した。
 
「ごめんね、セレン。いっぱい迷惑かけちゃった。黙って家を出て行ってごめんね」
「怒ってるんじゃないよ」
「分かってる、心配してくれてたんでしょ?」
「そうだよ、また一人で泣いてんのかなと思ってた。だっていろ巴って強がりなくせに泣き虫だし。おれじゃ、だめだった?」

 セレンは軽く首を傾げた。
 すぐ目の前でセレンに見つめられて恥ずかしくなったけど、今はそれよりも大切な話がある。
 わたしは首を大きく横に振った。

「セレンは何も悪くないの。ねぇ、今からわたしの話をちょっとだけ聞いてくれる?」
「いいよ」

 柔らかい声色に内心、ホッとしながらわたしは話を続けた。

「ここを出て行った日、実は彩世さんに会ったんだ。その時に、結婚のニュースは本当だって聞いてさ。凄くショックだったの。セレンが誰かのものになっちゃうんだって。わたし、知らない間にセレンは誰のものにもならないって思い込んでたんだと思う」

 セレンは僅かに目を見開いた。
 全部本当だよ、という意味を込めて頷き返す。

「セレンのことは友達だと思ってた。一番、大切な友達だって。だけど、それは違うって気が付いたの。ううん、気付かないふりをしてただけだった。セレンが結婚するのも、ロサンゼルスに行っちゃうのも嫌なの。寂しいんだよ、わたしから離れて行っちゃうのが。友達だから応援しなきゃいけないのに……ごめんね。このままじゃ何もできない。わたし、わたしね。本当はセレンが……もが」

 いきなりセレンの大きな手で口元を覆われ、間抜けな声が漏れ出た。
 眉を寄せてセレンを見つめ返す。
 今から告白するところだったのに恥ずかしすぎだ。
 
「待って、ちょっと勘違いしてる」
「……勘違い?」
「おれ、結婚なんかしないよ」
「へ?」
「ロサンゼルスには行くよ。活動拠点を向こうに移すつもりだから。でも結婚はしない。するなんて一言も言ってないと思うけど」
「で、でも」
「それから、あいつとは何の関係もない。勝手に付きまとわれてただけ。写真を撮られた日も、仕事終わりに待ち伏せされてただけだよ。腕もすぐに振り払ったのに、そこは載ってなかった」
「そうだったの……」

 知らず知らずのうちに緊張していたのか、肩の力がすぅっと抜けていく。
 てっきり、セレンと彩世さんは身体の関係があるものだと思っていた。
 二人の間には何もなかったなんて。
 どうしよう、凄く嬉しい。
 意図せず口角が緩んだところで、タイミング悪くセレンの手のひらが離れていく。
 ニヤついた顔が丸見えになるのが嫌で、すぐに自分の両手で鼻まで覆い隠した。
 
「で、どうぞ」
「何が!?」
「さっきの続き。本当はセレンが……何?」
「な、何って」
「おれのことが、何なの?」

 セレンは悪戯な上目遣いで、わたしの顔を覗き込んだ。
 可愛い……と呟きそうになったところで、セレンの肩を全力で押し返す。
 わたしが何を言おうとしていたのか、もう気付いているらしい。
 
「ばか! やだ、絶対に言わない! 正直になろうと思ったけど、やっぱりやめたぁぁあ!」

 子どもみたいに楽しそうに笑うセレンの声を背に、半分叫びながらソファの端に向かって逃げようとした途端、手首を引っ張られる。
 想像以上に力が強くて、抵抗する暇もなくセレンの胸の中に飛び込んだ。

「セレン……?」

 状況が飲み込めないまま顔を上げる。
 セレンはわたしの耳元に鼻先をすり寄せると、掠れた声でゆっくりと囁いた。

「いろ巴、好きだよ」 
 
 
  
< 50 / 65 >

この作品をシェア

pagetop