弊社の副社長に口説かれています
7.同伴出社
月曜日の朝。ついに出社となる。
陽葵はせめて家を出る時間はずらしたいと訴えたが尚登には通じない。二人揃って家を出、エレベーターに乗り込んだ。そのエレベーターがすぐに減速する、誰かが乗り込んでくるのだ。嵌め殺しのガラス窓に見覚えのある顔が見えて、陽葵の顔は引きつった。
5階に住む中年女性──小宮だ。小宮からも二人は丸見えだ、目が合った瞬間からニコニコと、いや、ニヤニヤといやらしい笑みを浮かべる。

「まあまあまあまあ」

開くドアを押し開きながら入ってくる小宮の声はとても響いた。その小宮に場所を空けようと尚登は陽葵に体を寄せてくる、隅に追いやられ陽葵は体を小さくした。

「こんな朝早くから一緒だなんて、泊まって行かれたのかしら?」

二人の顔を見比べながらの言葉に、尚登はにこやかに「はい」と答え、陽葵は返事は濁した「ええ、まあ」となる。

「ついこの間、たまたま送ってくれた上司の方だって言ってたのに、ねえ?」

小宮は陽葵を見ていやらしい笑みを浮かべる、陽葵は今でも上司ですと陽葵は心の中で叫ぶ。

「友達を見送りに来ただけですとか言っていたのに、ねえ? まあまあ」

それは尚登への言葉だ、尚登はにこりと微笑み答える。

「ええ、押しかけてみました」

本当ですよと叫びたいのをぐっと抑え、ただ嵌め殺しの窓の外の流れていく景色を見ていた。早く1階に着いてほしいと願う陽葵とは裏腹に尚登と小宮は会話を楽しんでいる、尚登のコミュケーション能力が高さに陽葵は驚いた。
エレベーターはようやく1階に着いたが、建物を出ると行く方向は同じだった。小宮はその先のコンビニへ行くようだ、その手前の角まで一緒に行くことになる。

「んもう、お幸せにね~」

別れ際、大きな声で送り出された。数人だがいるまったく無関係の通行人の視線が陽葵には痛い。

慣れた経路でみなとみらい駅に到着する──ホームに降りた途端感じた、慣れているその場所がいつもと様子が違う。道すがら多くの社員の視線が突き刺さるのだ。少し離れていても挨拶をしてくるのはやはり副社長たる尚登がいるからか。そして普段は追い越して行く者などそうはいないと感じるが、今日はぐんぐん追い抜かれていく、地下から上がる長い長いエスカレーターではそれが顕著だった。その者がすれ違いざまに挨拶をしていくのは当然だと思うが、さらに先を行く者に声をかければ振り返りヒソヒソと話すのは、やはり二人の関係を話題にしているのだろうと想像できた。
そもそも尚登が目立ちすぎるのだと陽葵は意味もなく恨めしく思う。長身の美形で若い副社長、その者が陽葵を職場から連れ出したことなど社内中で噂になっているだろう。話題の中心にいることに恥ずかしさを感じ、エスカレーターを降りると尚登から離れるためと歩みを緩めようとした時、陽葵の手を尚登が握った。

「え……っ」

一瞬びくりとしてしまう、しかし優しい力で握られ、その手を信用していいのだと判った。このままなら顔を上げずに歩けると前向きにとらえ手を繋いだまま社屋へ入る。

受付嬢たちが尚登に気づき立ち上がる、だが陽葵の姿も見つけて途端にむっとしたのを陽葵は見逃さなかった。それでも受付嬢たちは最上の笑顔で挨拶をすれば、尚登も「おはよう」と答えた。陽葵も挨拶を返したが小さくなったのは、受付嬢たちの言葉が自分に向けてではないと判っているからだ。
受付を通りすぎれば、小さな声が聞こえてきた。

「……えー……本当に、仲良くご出勤よ~……?」

誰の声なのかは判らない、しかし込められた感情を読み取り陽葵は肩身が狭い。

「まだ子どもじゃない……副社長の趣味、疑う……」

囁き合うような声が聞こえてしまうとは──確かにろくにおしゃれも化粧もしていない自分など子どもかもしれない。そんな自分は末吉の副社長の相手にふさわしいわけがない──つないだ手が申し訳なく感じられそっと外そうとしたが、尚登は緩みかけた手を無意識のうちに強く握っていた。
その時尚登の視線の先に見知った横顔が見えた。

「あ、あの子」

声に陽葵が視線を追えば、そこには三宅がいた。その三宅がふとこちらを見たのは、周囲の挨拶をする声が聞こえたからだ。視線が合えば、やや遠くても尚登の方から手を振り「おはようございます」と声をかけていた、それまでの不特定多数にかける朝の挨拶とは違うことに皆も気づいた、途端に人混みが分かれ三宅までの道ができる。尚登はありがとう、ごめんねと言いながらその道を歩き三宅に近づいた。

「お、おはようございます!」

三宅はきちんと尚登に体を向け、90度まで体を曲げて元気に挨拶を返す。

「金曜日はありがとうございました」

尚登が営業向けの声と笑顔で言うと、三宅は陽葵が見たことがない笑顔で応じる。

「そんな! とんでもないです! 陽葵ちゃんのためなら!」

絶対そんなことは思っていないと感じ文句を言いたいが、陽葵は小さなため息とともに天井を見るだけにとどめた。

「助かりました、な、陽葵」

尚登は笑顔で言うと握った陽葵の手を持ち上げ、その指先にキスをした──陽葵は喉の奥で小さな悲鳴を上げたが、周囲が上げた悲鳴に搔き消される。
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