愛を奏でるワルツ~ピアニストは運命の相手を手放さない~



『ホテル ザッハー』
こちらはオペラ座の向かいにある、インペリアルホテルと並ぶ老舗高級ホテルだ。
真っ白な建物、入り口の上にはやはりメインで来る観光客に向けてか国旗が並ぶ。
一階にあるカフェザッハーの入り口は混雑していて、待っている人数を考えると今からならかなり並ぶのではないだろうか。
レンと一緒に居る時間が減ってしまいそうで心配になる。

「ちょっとここで待ってろ。
荷物に気をつけて、あと俺以外の誰にも着いていくなよ?」
「着いていかないって!」

レンはそう言うと、ホテル入り口の方に行ってしまった。
何か用事があるのだろうが。
数分もしないうちにレンは入り口から少し出てきて、私を手招きする。

「こっちだ」

ホテル入り口からレンは私を連れて入ると、女性スタッフが立っていて先導していく。
そして入ったのはどうやらカフェの二階。
深紅の壁は上品で、その中でもボックスのようなゆったりした席に案内された。

女性はメニューをレンに渡し英語で会話をしていたようだが、彼女は最後私をチラリと見て立ち去っていた。
あの視線、完全にあんたは誰、という意味を持っていたと思う。

「さて、ザッハトルテを頼むとして、後は定番だとウィンナーコーヒーか?」
「あのー、もしかしてここの常連?
他のお客さんより、先に通されたよね?」

レンはメニューから顔を上げ、ニヤリと笑う。

「俺といると得をすると言っただろう?」
「既に得ばかりです。
ただ、ホイリゲといい、お店の女性達の視線が痛い」
「それはすまないな」
「すまないとは微塵も思ってないよね」

メニューを見ながらくくっ、と小さくレンが笑う。
あぁ、こういう笑い方も意地悪そうだけれど好きなんだよね。

結局レンはウィンナーコーヒーのみ、私はザッハトルテとウィンナーコーヒーを頼み、目の前に出てきた二つの写真を撮りおわった。

艶やかなチョコでコーティングされた漆黒のケーキ。
おそらくドイツ語でザッハトルテと書かれたような丸いチョコレートが上に乗っている。
ケーキの横には大量のホイップクリーム。
初めて食べる本場のザッハトルテにドキドキしつつ、ひとくち口に入れた。

「んん!!」

食べながら思わず声が出る。
とても濃厚なチョコとスポンジ、その中には少し甘酸っぱいジャムが挟んであった。
もう一口は横のホイップをたっぷり乗せて味わうと、ホイップは甘い物では無くこれは一緒に置いてある理由が頷けるほどにケーキと合う。
甘い!凄く甘いけれど、なんて美味しいのだろう。

「目が輝いているな」

ついザッハトルテに夢中になっていた私を、レンが頬杖をついて面白そうに見ていて恥ずかしい。

「ねぇ、レンも食べない?」
「そうだな、一口貰うか」

フォークは一本。
紙ナプキンで拭こうかと思ったら、

「一口くれ、ホイップは無くていい」

と軽く口を開けた。
私はフォークを持ったまま固まる。
え、これって私が切ってそれを口に入れてあげる、いわゆる『あ~ん』とやるやつですか?!

「口が疲れる、早く」
「はい!」

何故か上司から指示されたかのようにシャキッと答えると、面白そうにレンは私を見ている。
おそらく私を揶揄っているのだろうが、正直こういうことをしてみたいという下心もあるわけで。
私は食べやすいサイズに切ってフォークで刺すと、もし落としても片手で受け止められるに体勢を取りながら、慎重にレンの方へ手を伸ばす。
口元が明らかに笑っているレンは身体を少しこちら側に傾け、私はそっとその形の良い唇にケーキを運べば、レンはパクッと口に入れた。
焦ってフォークを引き抜いては危ない。
必死にレンが口を離すのを待っていると、すっとレンは離れて席に座り直す。
私はホッとして手を戻した。
何だか手が異様に震えて疲れた気がする。

「甘い」

レンはそういうと口の横についたチョコを舐めた。
たったそれだけの行為が、私の頬を赤くさせて私はそれを隠すように俯いた。

「ザッハトルテ戦争は知ってるか?」
「戦争?」

何だろう、こういう時に世界史の知識が乏しいことが恥ずかしい。

「ここ、ホテルザッハーとデメル、どちらが本家ザッハトルテを名乗れるかって裁判の話だ。
裁判を起こしたのはホテルザッハー。
そしてその裁判に勝ったのはここ。
だからそのケーキの乗っているチョコには、オリジナルのザッハトルテと書いてあるんだ。
おかげでどちらも有名になったし、結局は各自の好みで分かれたりする」
「知らなかった。
デメル自体は知ってたんだけど、チョコのイメージしか無くて」
「今度デメルも連れてってやろう」

まさかそんな事を言ってもらえるとは思わなかった。
だけれどレンには、私の滞在スケジュールを伝えてある。
きっと社交辞令だろう。

「嬉しいけど、明日の昼過ぎの飛行機で帰るから無理だよね、残念だな」
「別に今度来たとき行けば良いだろう」

私は思わず黙ってしまう。
今度。
今回の旅行は安く上げるために、1日目は夜到着、最終日は昼過ぎの便。
実質昨日と今日の二日間しか動けないスケジュール。
もっと日にちが取れれば良かったけれど、前の会社の状況がまだ宙ぶらりんなのでそういう訳にもいかなかった。
もしもあと一日あったなら、その社交辞令は現実になっただろうか。

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