愛を奏でるワルツ~ピアニストは運命の相手を手放さない~
「レンは、今夜仕事なんだよね?
明日も仕事なの?」
そう言えばそこを聞いていなかった。
「あぁ。
オフはあと二十分ほどで終わりだ。
それからは当分休みは無いだろう。
明日だがそんな訳で楓を見送ることは出来ない、悪いな」
レンの言葉に胸が熱くなる。
私を見送りたいと思ってくれていただなんて。
もしそれが社交辞令でも、やはり嬉しい。
「ところで」
胸がいっぱいだけれど、ウィンナーコーヒーは美味しいなと飲んでいたらレンが声をかけ私をじっと見る。
「あのピアニストは諦めたか?」
「諦めたくは無いけど、手がかりも無いし探せないよ」
せめてCDをと思ったがやはり無理だろう。
そうは思いつつも空港で売っていないだろうかと未練がましく考え、ため息交じりに答える。
レンはジャケットの内側のポケットから白い封筒を取り出し、私に差し出した。
「楓にやる」
「これなに?」
「開けて見ろ」
私は長細い封筒を開け中にある紙を取り出す。
それはドイツ語で書かれたチケット。
よく読むと、今夜七時からある楽友協会で行われるコンサートチケットのようだった。
「そこにお前の聞きたいピアニストが出る」
「え!!」
思わず大きな声を出し、私はチケットを持っていない方の手で自分の口を塞ぐ。
レンは大成功と言わんばかりに私を見ていた。
「え、え、嘘」
「嘘じゃ無い。
それにそのチケットは立ち見じゃ無くて席があるから、入る場所を間違えるなよ?
まぁ楓にとってはおそらく最高の場所だろう」
私はレンの顔とチケットを交互に見てしまう。
「もしかして音楽関係って楽友協会とかの仕事だったの?
だってこの人のチケット、人気でなかなか取れないんでしょう?」
「さぁ、どうだろうな」
「さぁって。
もしかしてレンが行くはずだったのに、仕事で行けなくなったとか?」
「俺はそもそも仕事があった」
「じゃぁわざわざ取ってくれたの?」
レンは形の良い唇を軽く上げた。
それで確信した。
やはり私のためにチケットを取ってくれたんだ。
どこまでこの人は私に素敵な思い出をくれるのだろう。
「ありがとう」
チケットを胸に寄せ、心からレンに言った。
「そんなに嬉しいか?」
「もちろん!
もう聞けないと思ってた彼のピアノが聞けるんだよ?!
でも、せっかくだからレンと一緒に聞きたかったな。
本当に凄いんだから」
一緒に聞いて、感想を話したかった。
レンはあのピアニストをどう感じるのか。
仕事柄、厳しい意見を言うかも知れない。
それなら私が彼を賞賛すればいい。
きっと彼のピアノを最後には気に入ってくれるはずだ。
「そろそろ時間だ」
レンは時計に視線を落とす。
寂しいが仕方が無い。
ここまでしてもらって困らせるわけにはいかない。
「夜はホテルに帰ってくるんだよね?」
「あぁ。戻るのはおそらく十時過ぎるだろう。
それでだ。
コンサートが終わるのはおそらく九時過ぎ、楓はコンサートの始まる前に食事を済ませろ」
「うん。どっかでパンでも買うよ」
「いや、五時に軽食を部屋へ用意するようにバトラーに手配させた。
楓はそれを食べてからコンサートへ行けば良い。
帰ったら先に風呂に入っていてくれ。
遅くなる可能性もあるから、寝ていても構わない」
「ご飯まで頼んでくれたの?!」
どこまで用意周到なのか。
この街の男性が紳士というより、レンが特別なのだろう。
「起きて待ってる。だってウィーン最後の夜だもの。
出来ればレンと話がしたいし」
そうか、とレンは言い手を上げてスタッフを呼ぶと会計を済ませた。
やはり私が支払うのをレンは拒否し、お礼を言った。
「私も出るよ」
「支払ったからゆっくりして良いんだぞ?」
「ううん、もう食べ終えたから」
あと少しでも一緒に居たい。
せめて見送りくらいしたかった。
「楓、チョコが口の端についてるぞ」
「え、どっち?!」
席を立とうとしたらレンに指摘されて慌てる。
口の端にチョコをつけながら私はずっとレンの前にいたのかと思うと恥ずかしすぎる。
紙ナプキンでよりあえず口の周りを拭こうと思ったら、指が私の唇を触っていた。
その指が、つい、と横に動く。
私は突然のことで固まってしまう。
「取れた」
テーブル越しに少しだけ伸ばしていたレンの手が戻り、人差し指にはチョコがついている。
そしてそれを、舐めた。
思わず叫びそうになるが声が出ない。
「やはり甘いな」
軽く口角を上げるレンは、楽しげだ。
だがこちらの顔は真っ赤になっている自覚がある。
恥ずかしくて唇が震えるというのも経験していた。
「な、な」
「な?」
震えて声を出すと、レンは意地悪そうな笑みを浮かべて聞き返す。
「何するの!」
「だから口の端に着いてたのを取ってやっただけだろうが」
「普通は拭うとかするでしょ?!」
「だから拭ったろ?指で」
いやそういう意味じゃ無い!
混乱して言葉を続けられない私に、レンははは、と笑顔。
「時間だ、出るぞ」
私は顔を赤くしたまま、レンを恨めしそうに睨むことしか出来なかった。
ホテル前にいたタクシーに乗り込もうとしたレンが私に声をかける。
「戻ったらピアニストの感想を聞かせてくれ」
「もちろん!
本当にチケットありがとう。
お仕事頑張ってね」
レンは、あぁと言ってタクシーに乗り込んだ。
私はそれを見送って、きちんとチケットが鞄に入っていることを再度確認し、ホテルへと足早に戻ることにした。