愛を奏でるワルツ~ピアニストは運命の相手を手放さない~



夕方六時。
七時開演というのに既に楽友協会に入る大きなドアは開き、着飾った男女からあまりにラフな格好の人々もいて驚いた。
私もドキドキしながら入り口でチケットを見せると、女性スタッフがある方向を指さした。
どうやら私の席はあちらのドアらしい。
空いたままのドアから入って目を疑った。
そこはなんと立ち見席。
ここはテレビで見た長細い楽友協会大ホールの一番後ろだ。
そこには柵があって、既に一番前から数列きっちり埋まっている。
前に並ぶ人達もいれば、後ろの壁に寄っかかり、友人らしき人達と話に花を咲かせていたりしていた。


そういえばチケットの代金を調べるとガイドブックに書かれている価格よりも異様に安くて、私はその理由がわからなかった。
もしかして四重奏くらいの小規模なものなのかと思ったら、下の席も上の席にも観客がいる。
あの男性はなぜこの場所のチケットを買ってくれたのか。
私が子供のように見えてここにしたのだろうか。
確かに長めの髪を下ろしても丸顔童顔のせいで25歳というのに新卒に間違えられる。
身長は約160センチあるけれど、海外では小さく感じられても仕方が無い。
買って貰ったのに何だかがっかりした気持ちでいると、周りから聞こえるドイツ語の中に日本語が飛び込んできた。

「席が取れて良かった」
「数ヶ月前の争奪戦は凄かったからね」

すぐ近くの席に座ろうとしていた日本人のご夫婦らしき人の会話だった。
聞き耳を立てていると、どうやら今日はかなり人気のコンサートだったらしくチケットを取るのが大変だったらしい。
ということは、私がチケット売り場で必死にこの席は?と聞いてもノーと言われるわけだ。
おそらく当日券みたいな感じて立ち見のこの場所は開放されるのだろう。
下の席に座っている人達と違い、立ち見席は年齢層も若い人が多いし、服装もみなラフだ。
チケットを買ってくれたおじさまは、私がどうしても今日のチケットが欲しいと思ったからこうしてくれたのだろう。
人の善意を一度でもがっかり感じた自分を恥ながら、おじさまに謝罪と感謝をした。

始まったコンサートはピアノとの共演らしい。
指揮台横には真っ黒なグランドピアノがある。
既にオーケストラの団員は揃って座っているが、テレビで見るよりかなり窮屈そうだ。
舞台右側から指揮者が現れ拍手が起きる。
そして左側舞台袖から出てきたのは背の高い男性。
あまりに距離が離れていて顔はよくわからない。
黒のタキシードを着て、髪を後ろになでつけているようだ。

タクトが振られ、バイオリンから静かに始まる。
そしてピアノが入ってきた。
観客はじっと前を見ている。
私は四列目当たりから、ひょこひょこ人と人の間から覗き込んで舞台を見た。

音が、一気に変わる。
ピアノの音がぐん、とこちらに迫ってきた感じがした。
オーケストラもそれに合わせ、相乗効果のように膨らんでいく。
この楽友協会の大ホールは、当然のようにコンサートに適したホールだ。
一度日本でも音楽ホールでオーケストラのコンサートを聴いたことがあったけれど、こんな風には感じなかった。
生で聞くと凄いなとは思ったが、格が違う。
これは場所だけのせいでは無い、演奏者達の格も違うのだ。
特にピアノ。
彼の奏でる音があまりに美しくて、私はその世界に釘付けになっていた。

凄い、凄い!

それしか感想が出ない。
音の波が押し寄せてきて、私の顔は興奮に満ちていた。
私は背の高い周囲の隙間から、彼の弾く姿を少しでも見たいとより必死になる。

何を考えているのだろう、どんな風に弾いているのだろう。
彼の表情が知りたかった。
だがあまりにこの場所では無理で時折彼の黒い身体が見えるだけ。
せめて、この音楽を心に、身体に焼き付けよう。
私はひたすらその音に耳を傾けた。

コンサートが終わると、割れんばかりの拍手喝采。
席から皆立ち上がって惜しみない拍手をしている。
この立ち見席の観客達も笑顔で拍手や声援を上げた。
私は胸が一杯になりながら、手が痛くなるほど手を叩いた。
彼が指揮者と握手をし、舞台袖に履けていく。
それをちらりと見られたが、やはり彼の顔は分からない。
人々はそれを合図のように席から立って、同じようにこの立ち見の人々も動き出し、私は群衆に流されるように外に出た。

既に外は真っ暗。
だが至る所のライトアップが美しく、私はまだふわふわした気持ちで空を見上げる。
東京とは違う古い建物が並び、向こうの通りでは近代的なトラムが絶え間なく行き交う。

来て良かった。
あんな最悪のことがあったから、思い切って外国に来ようと思えた訳で。

興奮しているのにお腹がまた空いてきた。
コンサート前の軽食では持たなかったらしい。
私は名も知らない曲のワンフレーズを思い出し、鼻歌を歌いながら夜の通りを歩いた。

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