元彼専務の十年愛
「荷物はこちらで全部ですか?」
「はい、お願いします」
「それじゃあ、失礼します」

業者の男女がキャップを取って頭を下げ、私も会釈を返した。
隆司先輩が業者を3人手配してくれたけれど、元々家具類はないし、ここに越してきて増えた荷物は小説数冊くらいだ。
ほんの15分程度で部屋はがらんどうになってしまった。
引越し業者に頼まなくても、宅急便で送ってもいいくらいだったと思う。
引っ越してきた時もそんなことを考えていたのだけれど、今思えばバイトの店長のことがあったから早く転居をと配慮してくれていたんだろう。

『半年間、婚約者を演じて一緒に暮らしてほしい』

「…なんか懐かしいな」

半年間の契約だったけれど、ここに住んでいたのは結局4ヶ月弱だ。
颯太と一緒にいた時間も決して多くはない。
けれど、心に固く被せた蓋を剥がすにはじゅうぶんな時間だった。

タガが外れたように私を求めた昨夜の颯太は、いつもやさしく抱いてくれたあの頃とは違う。
けれど、それを愛おしいと、いっそこのまま壊してほしいという狂気すら湧く自分がいた。
10年経った今も、私は彼を好きなままだった。
きっといつの間にか、10年前よりももっと彼を好きになっていた。
好きだなんて口にはできず、最後に感謝の言葉すら言えなかったけれど、少しだけ彼に宛てた想いを置いていってもいいだろうか。
あの小説の主人公がそうしたように、私も。
ダンボールにしまわずバッグに入れていた小説を取り出し、ページの下の角をほんの少し折ってテーブルの隅に置いた。
こんな小さな折れ目、ページを丹念にめくらない限り気づかれないだろう。
ましてや上ではなく下にドッグイヤーがあるとは誰も思わないはずだ。
颯太は、忘れていったんだなとしか思わず処分してしまうかもしれない。
それでいいのだ。
こんなのはただの自己満足でしかない。

——"この薄っぺらく小さな紙は、彼がここを訪れる前に風にさらわれてあっという間に消えてしまうだろう。それでも、時間が許す限りふたり語り合ったこの木陰の隅に、私の想いを残していきたい。"

…そう。彼女の手紙も、彼に届くことはなかったのだから。

窓の外を見れば、東京タワーは相変わらず不動にそびえ立っている。
二度とここに足を踏み入れることがないと思うと、ひとりで見るのが心細かったこの景色さえ少し名残惜しい。
もう私には縁のない場所。元々触れるはずのなかった世界だ。

「…さよなら」

小さく呟いた言葉は、誰にも知られることなく宙に消えた。

< 131 / 153 >

この作品をシェア

pagetop