冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜


 20時近くなっていたこともあって、それからすぐに出かけた。
 九条のマンションから歩いていける、カジュアルなイタリアンの店。週末の夜だからか、店内は客で溢れていて騒がしい。

「――2名ですが、席はありますか?」
「ああ……すみません、カウンターしか空いてないですえね。それでもいいですか?」

店員の言葉に、九条が麻子の顔を見る。

「構わないか?」
「もちろんです」

ちょうど空いていた席に座った。すぐ隣には他の客がいる。スペースに余裕がなくて、今にも肩がぶつかりそうだ。

「せっかく着飾ってくれたのにな。騒がしい上に席も狭くてすまない」
「いえ! 十分素敵です。それに、騒がしいお店も好きですよ。落ち着くし、楽しいです」

隣に座る九条がこちらに身体ごと向けるから、本当に距離が近い。高級レストランとは違う緊張が麻子を襲う。

「家も近いし、今日は遠慮せず飲め」
「課長も飲んでくださいよ?」
「変な期待はするなよ? 私は酒に強い。飲んだからと言って変わったりしないからな」
「なんだ。それは残念です」

届いたスパークリングワインで乾杯した。

「あーっ、美味しいです!」

精神的疲れと暑さからひどく喉が渇いていたせいで、グラスを一息で空にしてしまった。

「本当に美味しい」

今は、この日起きたこと全部忘れたい。ただ、九条と過ごす時間のことだけを噛み締めていたい。

「いい飲みっぷりだ」

レンズ越しの九条の目が細められるのが分かる。

「料理も美味しいんだ。どんどん食べて、今日くらいはもう余計なことは考えるな。人間、食べていれば大抵どうにかなる」
「課長でも落ち込むことあるんですか?」

まるで、自分が落ち込んだ時にもそうしているように聞こえる。

「ない」

即答したことに思わず吹き出してしまった。

「……本当になさそうですよね」

さすがアンドロイド――そう思うと笑いを堪えられない。

「笑い過ぎだ」
「だって、あまりに見た目通りで。一度でいいから、課長の余裕のない顔とか、へこんでる顔とか見てみたいです」

そんな麻子の発言を鼻で笑い、隣でビールを飲み始めている。それに負けじと、麻子も追加の注文をした。
 余計な思考が入り込んで来る隙をなくそうと、酒が進んでいく。でも、まだ正気は残っている。ほろ酔い程度というところだ。アルコールのおかげで緊張だけは解けて、九条に対してかなり饒舌になっている。

「結愛の上目遣いに落ちなかったの、課長が初めてかもしれません。さすが絶対零度の瞳の持ち主! 冷徹上司!」

ぎろり、と、ただでさえ怖い目を更に冷たくして睨まれた。

「男の人は、あの可愛さにイチコロなの。私にはまったくない要素です。高校の時も、好きだった男の子が、結愛のこと好きになっちゃったんですよ」

手のひらにある生ビールのジョッキを見つめる。

「あの子が言っていたこと、半分は本当のことなんです。母親が死んで、あの子の家に転がり込んだ。従姉妹とは言ったって、会ったこともなかったし、赤の他人も同然だった。迷惑に決まってます。だから、衣食住を与えてくれるだけで感謝しなきゃって言い聞かせてました。結愛がすることは何でも許して来たし、諦められた……でも、」

結愛が九条に触れた瞬間の感情が蘇る。あの、胸の中をドス黒いもので埋め尽くされる息苦しい感情。

「さっき結愛が課長に触れた時、思ったんです。課長だけは絶対にダメだって。諦めたり譲ったりできない……って」

そんな強い感情を持ったのは初めてかもしれない。

 不意に、カウンターの下の膝の上にある手を強く握られた。

「クソ真面目で、他人に甘えられない不器用な人間で。私にはそんな君がたまらなく可愛い」
「課長……」
「私が触れたいのは、君だけだ」

その目に熱が灯る。そのまま、九条が麻子の手を引いた。

「――行こう」

握りしめられた手のひらは酷く熱かった。



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