冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜
「中野さん、何でも俺を頼ってください。雑務でも小間使いでも」
席に戻る途中、丸山がそう言って来た。
「あ、ありがとう。こちらこそ、何か気づいたこととか困ったことがあったら何でも言って。よろしくね」
その目は異様に真剣だ。ますます疑問に思う。丸山は麻子に対して、どこか冷めた視線を向けていた。雑用を進んでやるタイプでもない。本質は違ったのだろうか。
「……ビッグプロジェクトに選ばれて。ここで中野さんの補佐につくことが出来るって、天は俺に味方してるってことだ。このチャンス、逃しません」
「え?」
丸山が真剣な面持ちで麻子の真正面に立つ。
「俺のこと、見ていてください。必ずあなたに認めてもらうから」
「う、うん。期待してる」
丸山の背中を見ながら、頭を傾げる。そう言えば、会議の後体調を崩して医務室で寝ていた時も、何故か丸山がそばにいた。
丸山が異動して来て、少しずつ懐いてくれてるってことでいいのかな?
以前の丸山より今の方が話しやすいし、仕事も進め易い。険悪よりずっといい。
これからは、これまで以上に仕事がきつくなるのは間違いない。
気合いを入れないと――。
九条に選んでもらえたのだ。期待に応えたいし絶対に失望させたくない。
こっそりと九条の方を盗み見る。相変わらず淡々と仕事をしている。落ち着いた声で指示を出し、表情が変わることもなく素早く業務を処理していく。
こうしていると、九条と恋人であることが自分の妄想だと思えて来て。結局、振り出しに戻る。
どれだけ時間が経っても現実味が持てる日なんて来ない気がして、心の中で苦笑する。
けれど、ひとたびオフィスを出て帰宅すれば、そこには確かに九条がいる。
「おかえり。今日は君の方が遅かったな」
玄関先に現れたのは、紛れもなく九条で。その視線は自分にだけ向けられる。
「課長は、出先から直帰されたんですね」
夕方からオフィスにはいなかった。
「ああ、少し飲んだからな」
アルコールを摂取したところで、この人は顔色一つ変えずに仕事が出来ると思うけど。
まだ、帰宅したばかりなのか、九条はシャツにスラックという姿だった。
「あ、あの、課長!」
廊下からリビングへと入って行く九条の後を追う。
「プロジェクト、選んでもらえるなんて、驚きました」
ソファに座った九条の隣に腰掛けた。
「驚く?」
「はい。だって、課長、そんなそぶり全然……」
一緒にも住み始めて、それなりに共に時間を過ごして来た。それなのに、まったくそんな話題は出なかった。
麻子に向けられた九条の視線が少ししかめられる。
「公私混同はしない。仕事とプライベートは別だ。事前に君に伝えたりするはずないだろ?」
どこか咎めるような口調と眼差しに、咄嗟に俯く。
「そ、そうですよね。変なこと言ってすみません」
九条がそういうことには厳しいと分かっていたのに、自分の図々しさが恥ずかしい。
恋人の実感がないなんて思っていながら、思い上がりもいいところだ。むしろ恋人気取りじゃないか。
「あ、じゃあ私、着替えて来ます――」
九条の前にいることが居た堪れなくなって、九条から視線を逸らしたまま立ちあがろうとすると、すぐに腕を掴まれた。