冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜
「皆さん集まっていますね」
会議室の前方中央に九条が立つ。それと同時に、そこにいた人間全員が背筋を伸ばしたのが後ろにいた麻子にはよく見えた。
「今回のプロジェクトは、インドネシアでのLNG事業に我が社が参画するものだ。皆さんも知っての通り、社運がかかったプロジェクトだ。ひいては、この国のエネルギー構造をも変革するものになる」
いつもの冷静で怜悧な表情。決して声を張り上げるわけでもない。それなのに、明瞭な声と言葉が聞く人間を引き付ける。
「エネルギー問題をはじめ、環境問題、物流、建設、全てが相乗効果となって利益をもたらす。それは、一企業の利益だけではなく社会的意義のあるプロジェクトだ。そういう仕事に携わっているのだという意識で、各々が持っている能力すべてで業務にあたって欲しい」
「はい」
そこにい人間たちが自然と声を揃えた。
「何があっても、この事業投資は実現させる。そのためには、この事業がいかに有益かを上層部に認めさせなければならない。皆の力にかかっている」
5歳だ。九条との歳の差は5歳。自分が5年後に九条のようになっているとは到底思えない。何人もの部下を従えて、大企業の幹部と渡り合い、国家レベルの事業を成し遂げる。考えただけでも自分の身には置き換えられない。それだけ九条は選ばれし者なのだ。
「8月下旬から実質的に動き始める。それまで、夏季休暇をしっかり取っておいてください。その後は地獄が待っているかなら」
そこで笑いが起きた。もう笑うしかないという感じだ。
会議が終わった後、山田が溜息混じりに呟いた。
「プロジェクトが始動したら、深夜残業、早朝出勤、徹夜が当然になるからな……」
「山田さんは、この規模のプロジェクトの経験あるんですか?」
麻子の問いかけに、山田が足を止める。
「ああ。あれはホントに地獄。『社運をかけたビッグプロジェクト』って言えば、華々しく聞こえがいいけど。華々しいだけの仕事なんてないんだよ。その裏には泥臭い仕事があるんだ」
山田は麻子よりも前からこの課にいる人間で、歳は九条に近いはずだ。
「……だから九条さんも。あんな風に表情が冷え冷えしてるから想像しづらいかもしれないけど、地べた這いずり回るような仕事をイヤってほどしてきてるんだよ。そのキツさを顔に出さないだけ」
誰よりも有能なで、誰よりも早く出世して。ずば抜けた能力でどんな仕事も涼しい顔をしてこなしている。あの容貌からそう見えてしまう。
「九条課長のこと、血も涙もないって言う人多いけど、誰よりも自分自身に対して血も涙もない人なんだよ。厳しいようで実は部下にとっていい上司なんだ。部下に思いつきで仕事させる人じゃねーから。無駄な仕事は絶対にさせない」
それは、麻子も常々思っていたことだった。
「他の上司の元だとそうは行かない。自分が安心したいがために、あれもこれも部下に資料を作らせる。検討させる。問い合わせさせる。たまったもんじゃない。そのほとんどが不要になるんだから」
そう言って、山田が笑う。
「でも、九条さんは違う。あの人が依頼するのは必要最小限のものだ。部下を酷使しない。だから俺は、あの人のこと尊敬せざるを得ないんだよな」
山田が、メンバーに取り囲まれている九条の方に視線を向けながらそう口にした。
「……中野さんが言っていた通りの人なんですね」
「え?」
「課長のこと、中野さんも山田さんと同じこと言っていました」
それまで黙っていた丸山が、麻子を見つめる。
「……うん、そうだね」
やはり、恋人である前に上司としても尊敬してやまない人だ。