冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜
エレベーターに乗り一階に降りて、ビルのエントランスを抜けた。真夏のむっとした空気が途端に身体を覆う。夜になっても気温が下がらない。ここ最近の気温の高さは尋常じゃない。
「どこにいくの? 食事、買いたいんだけど――」
「大丈夫ですよ。これから行きますから」
ずんずんと歩いていく丸山についていく。夜も8時を過ぎると、仕事帰りのビジネスマンたちもまばらだ。
「あ、課長」
え――?
出先から戻ったと思われる九条と出会した。九条の姿に最初に気づいたのは丸山だった。
「お疲れ様です。これから社に戻られるんですか?」
「ああ」
丸山と九条の会話をただ見守る。何か言ったほうがいいか考えている時点ですぐに言葉が出てこない証拠だ。無闇に言葉を発して丸山に何かを気付かれるくらいなら黙っている方がマシだ。
「僕たちはこれから軽く食事に行くんです」
「そうか」
「じゃあ」
丸山が会釈をして九条の横を通り過ぎるのに続いて麻子も会釈をした。その瞬間に向けられた九条のメガネ越しの視線に胸が跳ねる。言葉を交わしたわけでもないのに、ただその眼差しが自分に向けられただけでそれは秘密めいたものになる。すぐそばに丸山もいる。聞こえてしまうのではないかと思うほどにドキドキと心臓が騒ぐ。
「……中野さん、行きましょう」
「うん」
こちらに振り返る丸山にあわてて応え駆け足で向かった。
「サプライズって思ったんですけど……俺、どうも黙ってられない人間みたいで。もう種明かししますね」
丸山の隣に追いついたと同時にその顔を近づけて来る。無造作に整えられた前髪から、その目が麻子を捉えた。
「今日、中野さんの誕生日だって耳にして。こっそり準備したんです」
「え……?」
丸山が、黒い光沢の包装紙にシルバーのリボンがついた四角い箱を差し出してきた。
「あけて見てください」
「ここで?」
「はい」
歩道の脇に逸れたとはいえ、誰が通るかわからない場所だ。半信半疑で丸山を見上げる。それでも、その視線は少しも揺らがない。仕方なくそれを手に取りリボンを解いた。
「あ……これ、メゾンドショコラのチョコレート」
「誕生日プレゼントです」
それは、この界隈で有名な高級チョコレートだ。一粒一粒が宝石かのように並べられている。美琴からお裾分けでもらった時、そのおいしさに唸ってしまった。ただ、残念ながら自分で買おうと思えるような値段ではなかった。
「中野さん、いつも残業中によくチョコレート食べてるし、好きなのかなって。日持ちするんで、これからも残業のお供にしてください」
「でも、こんな高いもの、悪いよ」
「誕生日ですよ? そんな日くらい奮発するのが普通じゃないですか?」
「でも……」
仕事仲間から気兼ねなしに貰えるものからは逸脱している気がする。
「たかがチョコレートです。今回は食べたらなくなるものですから、気にせずもらってください。ご褒美なんです。つべこべ言わずに受け取ってください」
「ご褒美って、こんなの何のご褒美でもない」
「そうやって遠慮するってわかってたから、ご褒美にしてもらったんです。ほら、もうしまって」
丸山が蓋を閉めてしまった。
「……ありがとう。じゃあ、遠慮なくいただきます」
麻子の言葉に、丸山が満足げに頷いた。