冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜

「なんか、腹立ちますね」
「え……?」

丸山の低い声に驚いて、思わずその顔を凝視する。唇を噛み締め思い詰めたような目で麻子を見ていた。

「ご丁寧に、俺が座っている側の首筋にそんなものつけて。俺に見せつけているみたいだ」
「何言ってるの?」
「たまたまなのはわかってます。でも、なんか挑発されているようでイラつきます」

妄想も甚だしい。

でも、どうして丸山がそんなにも怒るのか――。

「指輪してないし、中野さんは結婚しているわけでも婚約しているわけでもない。まだ完全に誰かのものになったわけじゃないですよね?」
「は?」
「恋愛に順序はないですから。じゃあ」
「ちょっと――」

去っていく丸山の手のひらがきつく握りしめられているのに気づいた。

まさか、私のこと――。

思い返して見れば、思い当たる節はいくつかある。でも。最初はあんなに塩対応だったのにどうして。何がきっかけ?

わからない。
自分の考え過ぎであって欲しいと思う。自惚だったという結果の方がマシだ。どう考えてみても、この先やりづらさしかない。隣の席で、同じプロジェクトで。丸山とはあまりに距離が近い。
 麻子に付き合っている人がいると知ってもあの発言だ。考えれば考えるほど頭が痛い。隣の席で仕事をしている同僚だということを考えて、丸山が節度を持った行動をしてくれることを祈るだけだ。

仕事に支障が出ないように、先輩として私もしっかりしないと――。

そう気を引き締めて、すぐにトイレに駆け込み首筋の痕を確認した。

どうしてこんな場所に――!

一つにまとめていた髪を下ろし、ハンカチをスカーフにして首に巻いた。自分の席に戻った時、周囲の人に「冷房、強くないですか?」とぎこちなく誤魔化すたびに恥ずかしくなった。心の中で九条を責めても、当の本人は相変わらず涼しい顔で仕事をしている。翻弄されるのはいつも自分だ。

 丸山とは、夏季休暇に入るまでの数日をなんとかやり過ごした。やはり丸山も社会人だ。あれ以降、仕事以外のことは話題にしなかった。そのことに心から安堵した。どうかこのまま何事もなく過ぎていってほしい。

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