冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜
翌日。今まで以上に仕事に精が出るなんて単純なものだ。『九条と一緒に過ごせる休暇』というにんじんをぶら下げられて、間違いなく持っている以上の能力が発揮されている。
「……中野さん」
「ん? 何?」
ノートパソコンのディスプレイから視線を動かさず、隣の席から声をかけてきた丸山に応える。
「ちょっと、いいですか?」
高速でタッチしていたキーボードから手を離し、丸山の方に顔を向けた。その表情はどこか苦々しいものだった。
「……うん、いいけど」
どうでもいいことではなさそうだ。丸山について廊下に出た。
「どこまで行くの?」
「あまり人が通らないところに」
一体どうしたと言うのだ。怪訝に思いながら付いて行くと、階段の踊り場で丸山が振り向いた。
「どうしたの? 一体、何ごと?」
「そこ。ついてます」
「え?」
丸山が麻子の首筋を指差した。
「……それ、キスマークですよね」
「え……っ!」
咄嗟に手のひらで隠す。
「……やっぱり、そうなんだ」
「いや……」
咄嗟に隠した時点で心たりがあると言っているようなものだ。
「あまりにわかりやすすぎる感じで付けられてますよ」
昨日のキッチンで――?
あの時の行為を思い出す。
「中野さん、恋人いるんですね」
「それは――」
「嘘ついても無駄ですよ。昨日はちょうど誕生日ですもんね。付き合っている人がいるからこそのものでしょ?」
何を言っても意味はないだろう。九条と付き合っていることがバレたわけではない。焦る必要はない。そう自分に言い聞かせる。
「それ、かなり目立つんで。隠した方がいいと思います」
「あ、ありがとう。なんとかする」
何と言ったらいいのかわからなくて、とりあえずそう言った。
「中野さんの恋人、凄い独占欲ですね。誰が見てもわかるようにわざとつけたとしか思えないです。男を寄せ付けないため。俺のものだって誇示するため」
「そんな意味はないと思うけど……」
九条に限ってそんなこと考えているとは思えない。