冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜

 ふっと、麻子の手に九条の手が重なった。

「こうやって、誰かと二人で旅行するのは初めてだ」
「本当に?」

驚きの発言だ。あまり考えたくはないけれど、九条ほどの男なら過去に恋人の一人や二人いただろう。それに商社マンだ。金はある。恋人と海外旅行なんて何度も経験しているものだと思っていた。

「嘘ならわざわざ言わないよ」

また、麻子を喜ばせる言葉をくれる。

たまらなく幸せで、いつも以上に甘えたくなる。きっと、九条がそれを許す雰囲気を出してくれているからだ。甘えてもいいよと、言葉と態度で示してくれている。
 握られた手を握り返し、そっとその肩に頭を寄せてみた。そうしたら何も言わず、九条の方からも身体を麻子の方へと寄せた。
 いつか、九条が自分のことを話してくれる日がきっと来る。その時を、ただ待っていればいい。

 幸せを噛み締めるように目を閉じる。

 でも、そんなものは序の口だったと、旅を通して思い知ることになる。
 夕方頃にジャカルタに到着すると、手慣れた様子でタクシー乗り場まで辿り着いた。途中、タクシーの客引きと思える人間に何度も声を掛けられたが、九条は慣れた様子でそれらを交わし車に乗り込んだ。インドネシア語と思われる言葉で、行き先を告げると麻子へと顔を向けた。

「とりあえずホテルに行って、夕飯を食べようか」
「課長は、インドネシア語も話せるんですか?」
「ああ。何度か来ているし、何より今度のプロジェクトの相手国だからな。少し復習しておいた」

この人には、聞くまでもないことだった。

「君も、今後のためにも習得しておいて損はない。この旅で、積極的にインドネシア語を使ってみろ」

恋人である前にやっぱり厳しい上司だ。そういうところは抜かりがない。さっと、インドネシア語会話の本を差し出してきた。

「ありがとうございます。頑張ります……っ」

プロジェクトに選ばれたからにはしっかり役割を果たしたい。この機会を最大限に利用させてもらおう。早速手のひらサイズの会話本を開いた。

 空港から市街地までの1時間。九条は、インドネシアの文化や民族性、経済から政治的背景まで説明してくれた。それはどれも、ためになるものばかりだった。

「――彼らにとって、名前は神聖なものだ。正しい発音で口にするのが大切だ。そのためにも、確認は念入りにしておいた方がいい」
「相手方との挨拶の時には、そのことを頭に置いていた方がいいですね」

ビジネスは人と人との繋がりだ。何事も最初が肝心。その後のやり取りをスムーズにするためにも信頼を得ておきたい。
 
「……って、ごめん。つい、仕事モードになってしまうのが私の悪い癖だな」

そう言って苦笑すると、気まずそうに麻子の頭に手を載せた。

「せっかくのプライベートの旅行なのに。これじゃ、仕事みたいだ。つまらないだろ」
「いえ! すっごくためになります。つまらないなんて、とんでもないです!! もっと、いろいろ教えてください!」

いつも表情を変えない冷めた人間の困ったような顔に弱い。

「麻子は、ホントに仕事熱心だな」

その、鉄壁の作りの顔を崩して笑うのも反則。結局、こっちの心はこの人に落ちてしまうのだ。

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