冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜
「そもそも課長と二人で暮らしてるのに。勿体無いなんて、おかしいですね」
「――そういえば、君のアパートはどうなってる?」
九条が麻子の顔を覗きこみながら聞いてきた。
「あ……はい。この旅行が終わったら、夏休み中に一度見に行って来ようと思ってます。あれから従姉妹からは全く連絡がないので、まだ出て行ってないのかもしれません」
忙しさに追われて、あれからアパートには一度も戻っていない。結愛からも何の音沙汰もなかった。
「そうか……」
何かを考えているような表情の九条に、すぐに言葉を繋いだ。
「約束通り、3週間で課長のところからは出ますから心配しないでくださいね。課長からは従姉妹にお金まで出してもらっていますから、後はなんとかこちらで対処します。私も、新しい部屋も探し始めてるんです。これ以上、課長にご迷惑をおかけするようなことはないので――」
九条にはほんの少しも迷惑に思われたりしたくない。そんな感情から矢継ぎ早に言葉を放っていた。
「別に、迷惑に思っているから聞いたわけじゃない」
九条がどこか困ったように笑って、麻子の髪を撫でた。
「むしろ、3週間と言わずにもっといてくれていい。部屋は焦って探すもんじゃない。条件のいい部屋が見つかるまでゆっくり探せばいい」
「でも……っ」
「私がいいと言ってるんだ。何を気にすることがある?」
九条の優しげな声と自分の髪を撫でる優しい仕草に、嫌でも胸が甘く疼く。
「金の節約もできるぞ? 君は倹約家の貧乏性だろ?」
冗談めいた眼差しに変わっても甘さも含んでいる。そんな表情もするのだと、また一つ新しい九条を知る。
「課長、バカにしてませんか?」
「いや、君の感覚は大いに理解できるからな。バカになんてしたことない」
そう言って、九条が笑った。
飛行機は高度を上げ、雲の上へと抜け出る。
「理解できる? 課長が?」
高学歴で大手企業の出世頭。それだけでなく、その知的で品のある佇まいだ。どう考えても育ちがいい人間に見える。貧乏性とは程遠いと思うけれど。
「学生時代までは金には苦労したからな。それなりに収入を得るようになっても、貧乏性の気質は簡単に抜けないみたいだ。物欲もそうないしな。日々の生活が滞りなくできればそれでいいと思ってる」
誰かが、九条は学生時代アルバイトに明け暮れていたらしいと言っていたのを思い出す。
「課長の学生時代って、どんなだったんですか?」
「一言で言えば、苦学生かな。学費も生活費も全て自分で賄っていたから」
ご両親はどうしていたのだろう。一つ疑問が湧く。
「だから、君の『とにかく金が稼ぎたい』という気持ち、よく理解できる」
初めて課長に会った時私が言った言葉だ――。
「そう言うわけで、私はかなり金を貯め込んでいる。この旅行の費用も、君をあの部屋に住まわせることも、どうってことないってことだ。だから、金の心配は金輪際しないように」
九条はそこで過去の話を終わらせた。まるで、それ以上踏み込まれたくないみたいに。
そういえば、九条から家族について聞いたことは一度もない。プライベートの深いことは何も知らないのだ。