冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜
「か、課長、ちょっと、落ち着いて?」
「ん? 私は至って落ち着いてるよ? ほら、早く」
「じゃ、じゃあ……九条、さん」
苦し紛れにそう答えると、九条があろうことか耳たぶに舌を這わせた。
「わ……っ!」
「ふざけてると、この場で君を抱いてしまうぞ」
「な、何を言ってるんですか!」
「フライトの疲れを取らせたいし、腹も満たしてやりたいと思ってるのに。私を獣にさせないでくれ」
獣――!
耳元の唇に意識を取られていたら、いつの間にか九条の手のひらがスカートをまくりあげようとしていた。
「わ、わ、わかりました。言います。言いますから!」
「よろしく頼むよ」
「た……たくや……さん」
「ん? 何? 聞こえないんだけど」
ゴニョゴニョとしてしまう口調では許してはくれない。どうしてただ名前を呼ぶだけのことがこんなに難しいのだろう。祐介の時はなんともなかったのに。
いや。相手はあの厳格な課長だ。その課長を名前で呼ぶのはハードルが高いに決まっている。
「拓也さん!」
もうヤケで大声で叫んでやった。
「いくな何でも、もうちょっと色気のある呼び方はできないのか?」
「ご、ごめんなさい。拓也……さ――」
腰を反転させられると、そのまま唇を塞がれていた。
「……んっ」
触れるだけのものでもイタズラっぽいものでもない。全身を持っていかれるようなキスだった。鷲掴むように回された手のひらは麻子の後頭部を包み、もう片方の腕は背中全部を覆う。身体全部を包み込まれるみたいに抱きしめられながら受ける激しいキスに息が上がる。
ようやく解放された唇から、荒い呼吸が漏れた。
「ごめん。私の名前を呼ぶ麻子が可愛くて、つい盛った」
なのに、目の前の人は余裕の笑みを浮かべているから、拗ねたように目を伏せるしかない。
「約束が違います」
「だからこうしてキスで止めただろう」
恥ずかしいやら悔しいやらで顔を上げないでいると、九条が覗き込んで来た。
「怒ったのか?」
「怒ってます」
照れ隠しで怒ったことにしておく。いつも翻弄されてばかりで悔しいと言うのもある。
「許してほしいな」
そんな甘い声を出されると意地を張りたくなる。
「今日は紳士でいると約束するし、麻子に奉仕すると約束しよう」
「奉仕?」
九条から出て来るとは思えないワードについ顔を上げてしまった。
「至れり尽せりだぞ? これ以上ないってくらい、ベタベタに甘やかせてやる」
レンズの向こうの目が意味ありげに微笑む。
「え? ちょ、ちょっと?」
気づけば抱き上げられ、部屋にあるダイニングテーブルへと連れて行かれる。
「自分で歩けますから」
「知ってる」
「じゃあ、おろして」
「奉仕するって言ったろ?」
椅子へと座らされると、すぐに食事が運ばれて来た。
「今日は、明日からに備えてとにかく疲れをとってほしくて。部屋で食事をとる事にした」
正面に座る九条が言う。
「食事をしたら風呂に入って、ゆっくりしよう」
疲れさせないための気遣いか。テーブルには消化の良さそうな料理が並べられていた。