冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜
「麻子は……」
「え?」
思わず見入っていると、頭上から九条の声が聞こえてきた。
「結婚式やウエディングドレスに憧れたりするのか……?」
大聖堂に向けられていた視線がゆっくりと麻子に向けられる。
「私は、」
――結婚。それは麻子にとって決して憧れるものではなかった。自分の生い立ちや母親の姿にから、むしろ嫌悪していたのもある。
「他の子たちみたいに、当たり前のように結婚をいいものだとは思えなくて。自分がしたいと考えたこともないし、憧れたこともないんです。一人で生きて行ける道ばかり考えてました」
「……そうだったな。とにかく金が稼ぎたいなんて言う若い女性、あまり見たことはなかったよ」
そう言った九条の表情は、どこか安堵しているようなそれでいて少し寂しそうな複雑なものに見えた。その表情に、何故か胸の奥が痛む。
「母親のせいかも。男の人で苦労している姿ばかり見ていたから。これまでずっと、男の人を頼りたいと思ったことがなかった。でも――」
でも、今は――?
不意に、九条との関係のこの先を考える。九条と別れることを想像するだけで、身が引き裂かれそうになる。出来ることなら、ずっとそばにいたいと思う。
だからと言って、それを言葉にするのは憚られる。それは、怖くて不安だから。
九条から「好きだ」という言葉を聞いたことがないという事実が頭を過ぎる。ただそれだけのことに、どれだけ自分がこだわっているのかに気付かされる。
「……課長は? 結婚についてどう思いますか……?」
心の声がそのまま漏れてしまった。口にした後に瞬時に後悔する。
「や……やっぱり、なんでもないです!」
九条の答えを聞きたくないと咄嗟に思う。聞きたくないし知りたくないから、九条の顔から視線を逸らした。
「――じゃあ、行くか」
大きな手のひらが麻子の腰に当てがわれた。
「はい」
今は考えたくない。この瞬間、二人でいられる時間を大切にしたい。二度と巻き戻せない、特別な時間だ。