冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜
「……拓也さん」
雫が鎖骨の窪みに流れ落ちるのが視界に入る。
「自分の名前が嫌いだったが、君に呼ばれるとその感情が消えてなくなる」
そう言って、せつなげに笑う。
「……どうして嫌いなんですか?」
不意に愛おしさに溢れて、自ら九条の胸に身を寄せる。
「名付けの理由がふざけてるからだ」
「どういう由来なの?」
九条の手のひらが麻子の背中に触れ、ゆっくりと撫でる。
「母親が、自分の好きな男性芸能人と同じ名前を私に付けたんだ」
「当時の人気アイドル、とか?」
「そうだ。しかも、一文字間違えてるし。私に指摘されて気付いたありさまだ。それだけテキトーなものだったってことだ」
呆れたような声で紡がれているけれど、心からのものとも思えなかった。実は、そこに九条自身の深い闇が隠れているような。
「それだけ好きだったのかもしれませんよ? 拓也……さんから見ればバカバカしいと思えるかもしれないけど、お母様にとっては特別な存在だったのかもしれない。だからこそ息子に同じ名前をつけた」
九条本人からは想像もできない母親像にびっくりもして、否定したくなった。自分と同じであって欲しくないと、咄嗟に強く思った。
「……残念ながら、そんないいものではないんだ」
願望はあっという間に砕かれた。九条も親で苦労しているのかもしれない。これまでの九条の言動や情報が線になって繋がろうとする。
「そういえば、私の名前も適当に付けたって母が言ってました。そんなこと、子供にわざわざ言わなくたっていいと思いません?」
「でも、いい名前だ。親の思いなんてどうでもいいさ」
「拓也さんもね」
胸から顔を上げると、九条がはっとしたように目を開いて、次の瞬間笑った。
「拓也……いい名前です。私がこれからは何度も呼びます」
「この先の人生は、自分の名前を好きになれるな」
頬に滑り込んで来た手のひらが麻子の顔を引き寄せる。何をされるのかを察して目を閉じると、優しく唇が重なった。
触れた先から熱が伝わる。穏やかだった重なり合いが、次第に性急なものになって。お互いがお互いを求めるように、激しく絡め合った。
「麻子、」
「……た、くや、さん」
「麻子」
「好きです。あなたが、好き……っ」
揺れる水面も激しく波打つ。無我夢中で押し寄せる熱を受け止めた。