冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜
最初は起業しようかと思っていたが、無視し続けていることで父親の逆鱗に触れている。業務上、どんな妨害をされるかわからない。考えた末に大手総合商社に就職することに決めた。とにかく収入がいいことが全てだった。
高学歴のエリート集団。仕事も厳しいと聞いていたが、入ってみたら拍子抜けするほどそれほどでもなかった。これまでの経験の方がよっぽどきつかった。周囲にいるのは、自分が恵まれた環境にいたという自覚もない自己肯定感だけが高い人間ばかりだった。
『ハーバードに留学した時が一番きつかったです。その時は死に物狂いで勉強しました』
そんなことを堂々と自己紹介する。まず、貧しい家庭ではハーバードに留学するのは難しい。いくら奨学金があるとはいえ、そこにたどり着くまでにそれ相応の教育を受けていなければならない。それなのに、自分の力だけで成し遂げたような顔をする。
それも無理はなかった。ここに勤めるためには有名大学卒であることは必須だった。誰もが子供の頃から手厚い教育を受けてきた育ちのいい人間ばかり。留学経験者もゴロゴロいる。
生まれも価値観も違いすぎる。同僚たちとも当たり障りのない距離を保っていた。仲良しこよしの友情を築くためにここにいるわけではない。出し抜くか抜かれるか。自分にとっての周囲の同僚は、それだけだった。
とにかくがむしゃらに働いた。同僚に冷たいと言われても先輩に可愛げがないと言われても、成果をあげればそれだけ実績になっていった。気づけば『九条はああいう奴だから』と認識され何ら困ることもなくなっていた。
そうして携わって来たプロジェクトの中で、今の副社長の河北に目をかけられた。
「今の若者にはない、その野生的な目がいいな」
野生的――冷めていると言われたことは何度もあるが、そう言われたのは初めてだった。
それからずっと、河北は何かにつけて気にかけてくれた。
河北が当時常務取締役でプロジェクトの最高責任者だったとき、まだ平社員だった自分を飲みに誘って来た。二人で酒を酌み交わしながら、あれやこれやと聞かれ自分の生い立ちを話した。ただ、両親は共に死んだことにした。父親のことは口にもしたくないし、説明するのも面倒だった。事実、戸籍上両親はいない。
「……そうか、苦労してきたんだな。その根性は見上げたものだ。何があっても、心折れたりしないだろう。誰も君を見下せる人間はいない。自分の出自に負い目を感じるなよ」
そう言って笑っていた。
育ちが悪いと知っても河北は可愛がってくれた。そして、家族がいないと知ったからなのか、プライベートで自宅に呼ぶようになった。そうして、河北の一人娘、すみれと会うことになった。
河北はそれはそれはよくしてくれたが、まだ自分の中では見極めていた。社内の勢力図として、河北が一番力を持っているのは間違いない。ただ、早々に河北派だと見られるのも得策じゃない。周囲の動向を見ながら、それでいて可愛がられるようにと、細心の注意を払い河北と付き合っていた。
そうして、商社マンとして順調なエリートコースに乗り駐在生活を終え帰国したとき、麻子に出会った。