冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜


 四月に着任する少し前、河北から言われていたことがあった。

『すみれの婿になる気はないか? 君を見込んでの、私からのお願いだ』

常務だった河北もまた、順調に丸菱のトップへの道を歩んでおり副社長まで上り詰めていた。もう、誰から見ても次期社長の椅子は硬い人物だ。見極めるまでもない。副社長に目をかけてもらえることは、この先最大の利点になる。

 ただ、家庭を築くことも結婚する気もさらさらなかった。自分には、そういうことに必要な感情が全てが欠落している自覚がある。そもそも願望も全くない。
 だからといって無下に断るわけにもいかない。副社長の機嫌を損なうわけにはいかない。ビッグプロジェクトを控えている。

『副社長のお嬢様のお相手に、私などでは不相応です。すみれさんなら、もっと他にいい方がいらっしゃるはずです』

そう誤魔化した。

『君は、決めた人でもいるのか?』
『いえ、おりません』

誰かときちんと付き合ったことなどない。付き合おうと思ったこともない。過去に、何度かその場限りの関係があった程度。割り切った関係以外、煩わしいだけだった。

『それならよかった。まあ、答えは急いでいない。君にとっても大事なことだからな。ゆっくり考えてくれ。ただ、これだけは覚えておいてほしい』

終始朗らかな笑みを浮かべていた副社長が真顔になる。

『すみれは、本当に君を好いているみたいでね。私たち夫婦も是非とも君を家族に迎えたいと思っている。どうか、すみれの心を傷つけないでやってほしいんだ』

ゆっくり考えてくれと言いながら、それは、結局縛っているのと同じではないか。

どうせこの先誰とも結婚するつもりはなかった。

だったら、丸菱で生きていくのに有利な相手と婚姻を結ぶのも、仕事の一環とでも思えばいいのかもしれない――。

すみれに特別な感情はない。嫌いでもない。だったら、いっそのこと結婚して、丸菱での立場を強化するか。面倒だということ以外のデメリットは見当たらない。

そう頭では思うのに、どこか自分を引き留めるものがあった。それからは、その話題にはのらりくらりと交わしていた。

 そんなある夜のことだった。土曜の夜なんていう一社員は仕事が休みのはずの夜、オフィス近くで麻子に 出会(でくわ)した。

 どうしてだろうか。彼女が泣いているのを黙って見過ごせなかった。女の涙など、母親のせいで嫌悪しかしていなかったのに。いつも笑顔を絶やさず仕事をしている麻子の涙は、判断を狂わせた。放って置けなくなった。


 連れ帰った自分のマンションで麻子が涙ながらに語るのを聞いた。

麻子の母親に対する後悔も、恋人からのひどい仕打ちも、何もかも。

根っこの部分では一人で生きてきたであろう彼女の痛々しい背中を見つめていると、なぜか自分の胸が生々しく痛んだ。

男に縋り男に翻弄された母親。
麻子の母親もまたそんな女だった。

そうはなりたくないという麻子の気持ちが痛いほどにわかる。

 誰かに振り回される人生じゃない。自分の力で生きていけるように。上司である自分がしてやれることは、麻子に仕事を教え込むことだった。

 麻子は、少し無理なことを要求しても、必死に応えようとする。そしてこちらの期待に応えた。
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