冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜
「九条君、今度のプロジェクトの人選は進んでいるか?」
営業本部長と話をしている時だった。
「はい、少しずつ絞られてきております」
「それと同時に、まだ先のことではあるが、そのプロジェクトで現地に派遣する社員の目星もつけておいてくれ」
「承知しております」
「そういえば、あの社員、名前は確か……中野さん」
ブライトン社との契約で、営業本部長に麻子の顔と名前を覚えさせることもできた。
「中野がどうかしましたか?」
「彼女は入社何年目だ?」
「五年目ですが」
「彼女、なかなかいいんじゃないか? 説明も明瞭で簡潔だったし、彼女が作ったという資料もかなり評判がいいんだ」
「私も直属の上司として彼女は評価しております」
「インドネシアのIL社への駐在員――」
「私も彼女がいいのではないかと考えておりました」
つい前のめりになってそう言っていた。
「そうか」
語学研修なんかではない。商社マンとして誰もが狙うキャリア、現地会社での駐在だ。それも社を挙げてのビッグプロジェクト。そこできちんと仕事をこなして帰国すれば、その後のキャリアは約束されている。同期の中で頭一つ抜き出るのは間違いない。
まさに、営業本部長の方から麻子の名前を出してほしいと思っていた。自分から提案するよりも何倍も説得力が増す。
「まだ時間がありますので、私の方でもう少し精査してまたご報告させていただきます」
「ああ、そうしてくれ」
実質的に決定権者は営業本部長だ。これでほぼ間違いないと考えていい。
それから数日後のことだった。取引先との会食のあと帰社すると、すみれがオフィスビルの前で待ち伏せしていた。彼女の姿を見た瞬間、一瞬、気が重くなった。
「どうしてもお会いしたくなって。ご迷惑を承知で九条さんを待ってしまいました」
その目を見れば、特別な感情が込められているのがわかる。だからこそ気が重い。立場上、はっきりと答えないままで誤魔化しながら接してきた。それに居ても立ってもいられなくなって、こんなところまで来てしまったのか。
「すみれさんに待たれて、迷惑だなんて思いませんよ」
体裁上必要な優しさで接する。彼女と接する時はいつもそうだった。でも、どうしてだろう。いつも以上に割り切れない胸の重苦しさを感じる。
「ただ、時間も時間だ。危ないから心配しているんです」
「九条さん、私」
女子大を卒業して、花嫁修行と称して働かずに習い事をしているだけの生活を送っている。一人娘として溺愛された人だ。
「もうずっと何年も、九条さんのことだけを見てきました。私にはあなたしかいないの。だからお願い。私の気持ちに答えてくれませんか?」
「すみれさん」
「あなたが好きなの」
その目に涙を溜めて見上げてきた。その涙に心ひとつ動かされない自分がいる。
「今日はもう遅い。タクシーを拾いますから、それに乗ってください。副社長も奥様もご心配されます」
「私の気持ちに答えて」
「……申し訳ございません。必ず改めてお返事いたします。今日のところは、私を安心させていただけますか?」
そう優しく伝えると、諦めたように彼女はタクシーに乗り込んだ。そのタクシーを見送りながら、以前よりずっとこの縁談に対して後ろ向きになっている自分に気づく。