冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜

 オフィスに戻ると、一人残っている麻子の姿があった。そして、なぜか彼女が泣いているのに気づく。

「どうした?」

同じ涙なのに、何が違うのか。麻子の涙は心をざわつかせる。そしてその時、思いもしない言葉を麻子から聞くことになった。

「課長のことが好きだから、知りたいんです」

突然『見合いをするのか』と聞かれ、それが何の関係があるかと言ったら返ってきた言葉だった。

人生で一番動揺した言葉かもしれない。これほど心かき乱された言葉はなかった。

 無意識の中で感じる喜びと、絶対に受け入れるわけにはいかないという失望。その言葉を一番言われたくなかった相手であり、他の誰からも欲しいとは思わない言葉。

 この先、プロジェクトメンバーに選び、駐在員として辞令を出す相手だ。そのために仕事をやらせてきた。絶対に恋愛関係になんかなれない。上司と部下であらねばならなかった。
 それだけじゃない。自分には誰かを幸せにできるような心を持ち合わせていない。

 麻子を突き放し一人になると、そこにあることを主張するように心臓が暴れ出した。
 
 上司として正しい判断だ。自分のためにも麻子のためにも、この判断に後悔はない。なのに、どうしてこんなに胸が痛いのだ。

 その夜、自分の気持ちを自覚した。部下としてだけでなく一人の女性として麻子を大切に想っているということを。


 その翌日、副社長の元を訪れた。

「大変、申し訳ございません。すみれさんとの縁談、正式にお断りさせてください」

そう言って頭を下げる。

「君にとって決して悪くない話だ。理由を聞いてもいいか?」

麻子の気持ちを聞いて心が固まった。

確かに、すみれとの結婚のメリットを考えたからこれまで答えを濁してきたのだ。この縁談を断れば、多かれ少なかれ失うものもある。でも、それ以上に守りたいものができてしまった。

『お見合いされるんですか?』

麻子がそう聞いてきた。と言うことは噂として彼女の耳にも入っている。たとえ麻子の気持ちに応えることはできなくても、この先、これ以上彼女を悲しませたくない。そんな思いが生まれた。 

そして、何より自分自身が、麻子を想いながら他の女と結婚するのが嫌だったからだ。

「大変ありがたいお話だということも、これまで目をかけてくださった副社長を失望させてしまうことも重々承知しております。それでも、どうしても、私にはすみれさんを幸せにする自信が持てませんでした」
「すみれは、女として受け入れられないか?」
「すみれさんは素晴らしい方です。これは全て私自身の問題です。申し訳ございません」

ただ頭を下げる。説明するに値する理由なんてない。心の問題なのだから。

「――君に決めた人はいないと言っていた。なら、この先心が変わるかもしれないな。君の気持ちは一応、すみれに伝えるつもりだが、すみれもなかなか頑固なところがある。君の気持ちが変わることを期待して待っているよ」
「待たないでいただけると、助かります」
「まあまあそう言うな。とりあえず今は、プロジェクトのことを最優先でいこう。我が社の命運がかかっている」

すみれの顔が浮かんで、思わずため息が出そうになる。他の男に目を向けてくれと願うばかりだった。

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