冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜

 麻子といる時間は、ただただ楽しかった。

 麻子の反応を見ていじめてみたくなったり、そして、その反応でまた楽しくなる。これまでの人生を思い返してみても、“楽しい“なんて思ったことはない。

 不都合極まりない社内恋愛でも、一つだけ都合がいいことがあった。それは、一日のほとんどをその姿を見られるということだ。

 ただ、そのせいで、ほんの少し見ないだけで、それが自分にとってとてつもなく不都合なことになった。

 たかが数日の海外出張。連絡を取らなかったところで何か困ることがあるわけでもない。
 なのに、電話をかけてもメールを送っても何の音沙汰もないことに居ても立ってもいられず、帰国したその足で麻子のアパートに向かっていた。

会えなくて寂しい ――。

寂しい――それは、幼少時代になくしたはずの感情だった。なのに、会えない寂しさに、息を切らして走っている自分に驚かされる。

 そうしてたどり着いた先に、麻子を裏切ったという以前の恋人がいた。
 麻子に付き合っていた男がいることは知っている。知っていたのに、本人を前にしたら訳のわからない苛立ちでいっぱいになった。

 その苛立ちは、過去への嫉妬なのか。込み上げる何かに突き動かされるように、玄関先で麻子にキスをしていた。

 それでもまだ、この感情を制御しようという意思はあった。

 けれど、それも麻子の従姉妹に対面した時に崩れた。
 男をその場で見定めて媚を売る、醜さを全面に出したような女。そして、何もかもを人のせいにして搾取する。そんな麻子の従姉妹は、自分の母親を見ているようだった。
 そして、彼女の伯父もまた、姪から金をむしり取ろうとする。おそらく、麻子から取れるだけ取り続けるつもりだろう。
 自分がどれだけ頑張っても足を引っ張る。いつまでも付いてくる、それは地獄だ。

麻子の人生の邪魔をさせたくない。この状況から助け出したい。

そんな思いから、一緒に暮らそうと言っていた。それどに大きなことを即決した自分にもまた驚かされる。

 麻子は、従姉妹からも伯父からも罵られた自分の姿を、惨めだと言って涙を堪えていた。

家族の恥部を知られたくない。
惨めな姿を人に知られたくない。

どれもこれもかつての自分が嫌と言うほどに味わったもの。

肩を震わせる麻子を見ていたら、抱きしめずにはいられなかった。

「君に、何一つ惨めなところなんてない」

泣かせたくない。守りたい。
いつでもそばに置いておきたい。

そんな感傷的で甘ったるい感情が胸を熱くする。

 誰かといることが苦痛だった。一人が当たり前だった。そんな人間が、誰かと生活を共にしようとしている。そんなことをしたいと思う日が来るとは思わなかった。

「課長の負担になりたくない」

誰かに頼ることが苦手な麻子を、この腕の中に閉じ込めてどこにも行かせたくない。

その夜、初めて麻子を抱いた。

 潤んだ目も、必死に背中を掴む手のひらも、唇から漏れる声も、何もかも。全部が愛おしい。

 自分の身体の奥が温かくなる感覚を知る。そんな感覚は初めてのことだった。

 麻子を抱きしめながら、なぜか不意に過去の自分が浮かんだ。
 いつでも、どこにいても、精神的にも物理的にも一人だった。触れるものは全て冷たく、目に入るものは全てモノクロだった。

けれど、今腕の中にいる存在は鮮やかで暖かい。

“愛している“

それが。自然に込み上げて来た感情の答えだと知った。

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