冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜
麻子との生活は、彼女への想いを加速させた。そのことに、どこか恐怖も感じていた。
このまま行ったら、どうなってしまうのか。そんな漠然とした恐怖が常に横たわっていた。
麻子の仕事に支障が出ないように、平日は絶対に抱かなかった。その理由も嘘ではないが、もう一つ理由がある。
心のままに求めたら、おそらく歯止めが効かなくなって手放せなくなる。そんな恐怖から自分を抑えた。
『私、稼げるようになりたいんです』
そう言った時の麻子を何度も思い出すようにした。何があってもそうさせたいと、麻子の従姉妹と親族の存在を知ってより強くなった。
迷惑でしかない親族を遠ざけたところで、完全に切ることはできないだろう。麻子の性格なら尚更だ。
麻子には、多少のことでは影響を受けない経済力を持たせてやりたい。
そうしていつか、自分から羽ばたかせるのだ。
二人で暮らし初めて少し経った頃だった。
死んだことにしている父親の息子が、突然現れた。どれだけ縁を切りたいと訴えても、金と力を使ってこちらのことを調べてくる。
腹違いの兄弟だと言われても、完全なる赤の他人だ。
「その年齢で丸菱の課長なんだって? T大出のエリートで。俺のお兄様は大変優秀なんですね」
締まりのない表情とどこか歪んだ笑み。身なりだけはブランドものを身につけ、傲慢さと卑屈さを醸し出す男だった。
「何か? お宅とは何の関係もありませんが」
あれだけもう無関係だと言ったのに、一体何がしたいのか。
「何の関係もないは通用しないでしょう? 血縁だけは消えてなくならないんだから」
「血縁か。吐き気がする言葉だ」
背の低い男を見下ろす。その目に異様さを感じる。まともな人間の目ではない。
「ホステスの息子なんだろう? なんだよその偉そうな態度は。所詮、外見だけを取り繕ったメッキだ。あんたの中身はクソみたいなもんだろ。水商売して愛人になった女の私生児。クソなお生まれだ」
全て事実だ。反論する気もない。
「用件はなんだ」
「親父が、あんたを後継者にするってうるさいんだ。俺という正統な息子がいるのにさ。こんなふざけた話はないだろう? 俺にもプライドってもんがあるんだよ」
「どうぞ、お望み通りあなたが継いでください。そんな話、こっちこそ迷惑だ」
「嘘つくなよー。あんたがうちの会社を虎視眈々と狙ってるって知ってんだ」
勢いよく飛んで来た手が腕を掴む。その強さは尋常じゃない。こちらを見る目は狂気じみていた。
この男、まともじゃない――。
「狙ってんだよな? どうせ俺のことFラン大卒のアホだから騙くらかせるって、思ってんだろ? 親父と結託して俺を排除しようとしてんだよな?」
おそらく、何を言っても聞く耳を持たない。
精神を病んでるのかもしれない。
「あんたがこの世にいるってだけで、頭がおかしくなりそうなんだ」
「手を離せ」
「なあ、あんたなんてどうせゴミみたいな人間なんだし、消えてくんない?」
その目の色が変わる。
「消えろ」
グッと掴まれた腕に激痛が走る。
振り払ったと同時に腕から手が離れ、男はそのまま踵を返し立ち去った。
根拠のない妄想。あの目つき、行動。間違い無い。あの男は精神を病んでいる。あのまま放置していたら症状は悪化して、取り返しがつかないことになるだろう。
どうして今になって、関わって来る?
どうして――。
正論は通じない。
何かしらの手を施さないと、またいつ妄想に囚われて現れるかわからない。
血縁。
ふざけるな。
血縁に助けられたことなんか一度たりとてない。その全てに見放されて生てきた。
なのに、どこまでもその呪縛から逃れられないのか。