冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜


 麻子と過ごす初めての誕生日。どうするか悩んだ挙句、急遽、旅行へと連れて行くことにした。

 この先のことを考えると、形として残るものを贈ることは躊躇われた。だから旅行だ。そして、近い将来赴任することになるジャカルタの街を見せておきたい。
 そう考えておきながら、結局、腕時計を買ってしまっていた。指輪を贈る覚悟もない。それなのに何かを残したいという、中途半端な足掻きに自分が嫌になる。

 この旅行は麻子にとって幸せなものにしたいと思った。
 これから先、どこに出て行っても、堂々と自分に自信を持てるように。誰にも負けない、いい女なのだと分かってもらいたい。

 誰にも邪魔されない三泊四日の二人だけの時間は、かけがえのないものだった。

 ずっと寄り添っていた。折に触れて、インドネシアの文化を教えて。食べたいものを食べ、抱きしめたい時に抱きしめる。

 観光の途中で、結婚式に遭遇した。

「麻子は、結婚式やウエディングドレスに憧れたりするのか?」

気づけば、そう聞いてしまっていた。聞いた直後に後悔する。

「他の子たちみたいに、当たり前のように結婚をいいものだとは思えなくて。自分がしたいと考えたこともないし、憧れたこともないんです。一人で生きて行ける道ばかり探していました」

その言葉にホッとしながら、胸の奥で小さな痛みも感じた。育った環境がそうさせている。でも、いつか、仕事だけではない幸せも見つけてほしい。

その時、隣に立つ男……。

想像しそうになって、小さく頭を振った。

麻子がインドネシアに赴任しても、別れなくてもいいのでは?
むしろ、同じ課ではないのだから、付き合い続けることに問題はなくなる。これからも変わらず、麻子を支える道だってある。

そんな風に、心の奥の本音では、二人でいられる時間を引き延ばしたいと望んでしまっている。

それなら、いっそのこと……。

そう望むと同時に、重くのしかかるのだ。

こんな自分が誰かを幸せにできるとでも?

そもそも、家族というものを知らない。

子供が生まれたとして、真っ当な愛情を注げるのか?

人として大切なものが大きく欠落した人間だ。今は良くても、長く一緒にいれば、いずれ麻子を傷つけ不幸にすることになるだろう。

 それに、断ち切ることのできないしがらみがある。血の繋がりというだけで、絡みつく弟という存在。
 あの男が現れてから、父親の会社の経営状況を調べてみた。老舗とは言っても、ここ最近は経営は盤石とは言えないようだった。息子にも問題がある。だからこそ、父親は焦っているのだろう。
 このまま何事もなくやり過ごせるとは思えない。
 関係ないと言っても、そう簡単に解放してはもらえないだろう。あの家の問題に巻き込まれる日が来るかもしれない。そんなものを抱えた人間が、麻子と一緒にいていいはずがない。
 ただでさえ麻子は苦労してきた。この先の人生は、平穏に幸せに生てほしい。

麻子の親族でさえ、彼女から切り離したいと思っているのに、俺までもが麻子の負担になるつもりか――?

その葛藤は日に日に大きくなって自分を苦しめていた。

 これまでの人生、過去にある思い出は全部、暗く汚いものだった。でも、麻子と過ごした思い出は何もかもが幸せなものだ。

これほどまでに愛してしまった女を、手放せるのか――?

「苦しくなるから、それ以上私を惑わせるな」

それは、麻子を抱きしめながら漏れた、隠しきれなくなった悲鳴だ。
 麻子が、虚しいだけの空っぽの人間を、その暖かさで包み込む。


 旅行の最後の観光地に、プロジェクトの現場を選んだ。

「麻子と一緒に成功させたいんだ」

二人の未来がどうなっていたとしても、それだけは変わらない。

 そして、最後の夜。レストランで食事をした。そこは、ジャカルタのビジネスマンが商談でよく使うレストランだった。麻子がジャカルタで働くことになった時、パーティーに出席する機会も出て来る。そういう時に困らないようにと選んだ店だ。

 着飾らせた麻子はたまらなく綺麗だった。心から笑う無邪気な笑顔も、きりっとした知的で意思の強い眼差しも、ふとした瞬間に見せる大人の顔も。

 最後の夜は、どうしようもなく昂った。

 全部飲み込んで、どこにも行かせないように閉じ込めてしまいたい。何も考えずに、そうできたらどれだけいいだろう。

切なさと焦燥感にどうにかなりそうだった。

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