冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜
* * *
旅行から戻ってからは、カウントダウンが常に頭に鳴り響いていた。
それに抗うように、この幸せな時間を引き延ばしたいと願う。
このままずっと――。
でも、そんなことは、所詮無理だったのだ。
誰かを幸せにできる人間ではない。
それを一番わかっていたのは自分自身だったのに。
麻子が部屋を出て行く二日前、副社長室に呼ばれた。
「九条君、君は、決めた人はいないと言っていたよな?」
プロジェクトの話だと思ったら、そうではなかった。部屋に入るなり鋭い眼光がこちらを射抜く。
「何のお話でしょうか」
身構えつつも、落ち着き払った態度で河北に向かい合う。
「ああ、呼びつけて早々、悪いな。仕事の話ではないんだが、ちょっと君に聞いておきたくてね。座ってくれ」
表情一つ変えない真顔に、逆に意表をつかれたのか、河北の方がその表情を崩し笑みを浮かべた。
「では、失礼します」
頭を小さく下げ、副社長室の応接用のソファーに腰掛ける。
これから河北が発するであろう発言を、この短い時間の中でいくつも想定しておく。思いもよらないことや突かれたくないことを聞かれた時に、こちらにとって不利になるような情報を相手に少しも与えてはいけない。常にあらゆることを想定しておくことが、誰かと対峙する時の鉄則だ。
「いやあ、忙しいところに申し訳ないんだが、すみれのことなんだ」
婿入りの話を正式に断ってから、すみれのことが河北との間で話題にのぼったことはなかった。まだ、期待しているということか。
「最近、娘が落ち込んでいてね。どうしたのかと聞いたら、どうやら君のことらしいんだ」
頭をかきながら、困り果てたような表情を作っている。それは、そう見せているとも言える。
「九条君に、交際している人がいるんじゃないかと言うんだよ。そういう人、いるのかね」
麻子のことがバレたのか――。
すぐに頭をよぎるが、それはおくびにも出さない。大抵のことでは表情が変わらないのは、もう自分の性質のようなものだ。
「どうしてそのようなことを」
まずは、相手がどれだけの情報を持っているのか。こちらが答える前にそれが先だ。
「私もわからんのだよ。すみれも、それ以上のことを話さないからな。詳しいことを知らないのか、知っていても黙っているのか。ただ、」
そこまで言うと河北が真顔になってこちらを見た。
「すみれがうちで働き始めたのは知っているだろう? どうやら、そのことを確かめたくてうちで働きたいと言い出したみたいなんだ。それで、何か君のことを知ったのかと思ってね」
そういうことか。
これまで働くことに興味を示してこなかった人が、どうして働き出したのかと不思議だった。
それで、社内にその相手がいるのではないかと副社長も予想している――。
だからこうしてわざわざ呼び出して、反応や答えを見て探ろうとしているのだ。
そして、それが本当に社内の人間だと知ったら。
副社長の心は穏やかではないだろう。河北も、ビジネスマンとしては冷静で有能な人間だが、ことあの一人娘のこととなったらその判断も危ういものになる可能性もある。
河北とすみれが麻子のことまで突き止めているのかどうかはわからない。どちらにしても、麻子の存在を知られてはならない。絶対に否定しなければならない。
何があっても麻子を守らなければならない。
「そうでしたか。どのような経緯ですみれさんを悩ませてしまったのか全く心当たりがないのですが、考えられるとしたら一つしかないですね」
「なんだ。やっぱり、何かあるのか?」
河北が前のめりになって食いついて来た。