冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜
「プロジェクトが始動してから、業務が多岐に渡り、その上煩雑なことから、メンバーとの接触はより密になっております。その中には当然、女性もおります」
麻子を想定していてもそうでなくても、どちらでもいいように、そちらの勘違いだと思わせる。
「仕事で、女子社員と二人で社外に出ることもあります。そういったところを見かけられたのでないでしょうか」
ゆっくりでもなく早口でもなく、淡々とそう言葉にした。
「……なるほど」
「社会に出ていれば、何ら不思議ではないと分かりますが、すみれさんの場合は、誤解されても致し方ない」
「確かにそうだな。すみれは女子校育ちで、今まで働いたこともないからなぁ。私も、部下は厳しく育てられるのに、どうにも娘には甘くなってしまう」
河北が背もたれに深く腰掛ける。
「忙しいところ、こんなことで呼び出して悪かった」
「とんでもございません」
「ところで、そもそもの話だが。まだ、君の気持ちは変わらんか?」
まだ、話は終わらせてくれないようだ。
「すみれも、あの歳から働き始めたのは、君の近くに少しでもいたいというのもあるんだろう。そんなところが、いじらしいとは思わないか?」
残念だが、そんなことにいじらしさや憐憫を感じられるような人間性を持ち合わせてはいない。
「大変申し訳ございませんが、この先もこの決断を変えるつもりはありません」
申し訳なさそうに、それでいて絶対に受けないという固い意志を表すように深く頭を下げる。
「これは、哀れな娘の父親としての願いだが」
河北が、ゆっくりと上半身を起こし、膝に肘をついてこちらを見上げて来た。
「君も、周囲に誤解を与えるような行動にはくれぐれも気をつけてくれよ。今は、大切な時期でもある。自分の立場を忘れぬように。痛手を負うのは君だけではない」
「十分、心得ております」
娘を傷つけるようなことがあれば、相手に対する制裁も厭わないという脅しか。
「……まあ、君のような男にはいらぬ心配だな。鉄壁の九条君が、わざわざ面倒なことをするとは思えんからな」
以前の自分なら、部下と恋愛関係になるなど、わざわざリスクを抱えるような面倒なことはしなかった。
麻子だからだ。麻子だったから、リスクを犯してまでもこうなった。
――――だからこそ、守らなければならない。
すみれと河北が、何かを感じている以上、監視されていると思った方がいいだろう。
もし万が一、河北に知られることとなったら、何らかのペナルティが与えられる。
男女平等だと言われても、丸菱にはまだまだ男社会なところがある。社内的にも、弱い立場にいるのは麻子だ。
インドネシアに無事赴任させるまで。何があっても守り切らなければ。
そのためにも、結果として、これで良かったのだ。
麻子の方から去って行って、良かった――。
『課長といても、どうしても愛されてるって自信が持てなくて、苦しかった。課長といると辛いんです』
そう言って、苦しそうに顔を歪めていた。
麻子に、すべてを曝け出すことが出来なかった。そのことで、寂しい思いをさせていたんだろう。自分では大切にしていたつもりでも、やはり、麻子に一人辛い思いをさせていた。
副社長室に呼ばれてからのこの三日。注意深く周囲に探りを入れたが、麻子との関係を知られている様子はない。
副社長の様子からも、麻子のことはまだ認識していないと見ていいだろう。
もう一人、注意すべき人間は、すみれか――。
彼女は、少し警戒しておいた方がいい。
何もかも知られる前に、ここで離れて良かった。
無意識のうちに胸のあたりを掴み、
手のひらの中の香水の小瓶を握りしめた。
そこから、暗闇の中に香りが漏れ出て漂う。
まるでここに麻子がいるかのように、錯覚しそうになる。