冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜
翌日、同期の藤原が所属する法務部を訪れた。
藤原に用事があることにして、藤原の元で契約社員として事務補助をしているすみれの様子をうかがうためだ。
すみれの席は、島の一番端、出入り口からは少し離れている場所にあった。その席に、数人の男性社員が集まっていた。それを横目でちらりと見ながら、課長である藤原の席へと向かう。
「九条、どうした。契約がらみで何かあったか?」
「いや、今日は仕事のことじゃない」
こちらを認識したと同時にほがらかな笑みを浮かべた藤原が、目を見開いた。
「おまえが、仕事以外のことで来るなんて珍しいな」
「今日の夜、少し時間取れるか? 久しぶりにおまえと飲みたいと思って」
いろいろと、聞いておきたいことがある。こちらの言葉に、藤原がさらに大きな目を瞬きもせずに広げた。
「……久しぶりって簡単に言うが、久しぶりどころじゃないだろ。それも九条からの誘いなんて、雪でも降るのか?」
「それで、空いてるのか空いてないのか」
感情豊かに表情を変える藤原に淡々と聞く。
「いや、こっちはいいけど。おまえこそ、そんな時間あるのか?」
「なんとかな。じゃあ、また後で、連絡する」
用件だけを告げその場を立ち去ろうとすると、「それだけなら、携帯でよかったのに」と言うのが聞こえた。それには特に答えず、もう一度すみれの方に視線を向ける。
そうしたら、その目は明らかにこちらを見ていた。
その眼差しを見て気が重くなる。明らかに、余計な意味が見て取れたからだ。
やはり、まだ、諦めていないのか。
溜息を呑み込み小さく会釈をして、法務部を出た。
足早にエレベーターホールへと向かっていると、小走りでこちらへと向かって来る足音がする。
「九条さん、お待ちになって……っ!」
振り返る前に眉間に皺が寄った。表情を無にして、すみれに振り向く。
「どうされたんですか? 仕事中だったのでは?」
すみれの席の周囲に、人が集まっていたのを見ている。
「あ……大丈夫です。お仕事の話をしていたわけではないので。ああして男性社員がいらっしゃって、話しかけてくださることが多くて……ただそれだけなので」
「そうですか。それで、何か私にご用ですか? そういえば、先日も私のところにいらっしゃったそうですね」
誰よりも高価な服を身に纏い出勤して。ああして男に取り囲まれるのが仕事なのか。全くいいご身分だ。
「は、はい。何かの参考になるかと思って、法務部で作成している資料をお持ちしたのですが、いらっしゃらなかったので」
「それでしたら、デスクにでも置いておいてくださればよかったのに」
「それほど急ぎで必要になるものでもないと思うので、またの機会にお持ちすればいいかと」
それはつまり、その資料とやらには意味はないということだ。
会いに来て、話をする。そのための理由にしただけのこと。
そんなことをするために就職までしたのかと思うと、気が重いのを通り越して苛立ちを覚える。
「で? 今、その資料をお持ちくださったのですか?」
すみれの手に何もないのが分かっていてそう尋ねる。冷たく微笑むと、すみれはハッとしたように目を伏せた。
「そ、そうですよね。お持ちすればよかった……」
「では、その資料は藤原にでもお渡しください。今日会う予定があるので、彼から受け取ります」
副社長の娘として最大限丁重に接し立ち去ろうとすると、腕を引き止められた。
「あ……っ、すみません」
その顔を赤くして、パッとてを離す。その恥じらうような姿をじっと見つめた。