冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜
初めて会った日から、すみれの眼差しは酷く居心地が悪かった。
最初の頃は、目が合いそうになると逸らすのに、こちらが見ていとき常に視線を感じた。
何度か副社長宅で会うようになった頃には、何かにつけて話しかけて来るようになった。
そして、副社長が結婚の話を出してからは、その好意を隠さなくなった。
自分の希望は、何があっても父親である副社長が叶えてくれると思っているのだろう。はっきりと断ってもこうして不躾な好意をぶつけてくるのが何よりの証拠だ。どんな理由で恋愛感情を抱いたのか知らないが、その執着が見てとれる。
「……あ、あの、私、九条さんの気に障ること、何かしましたか?」
「なぜそんなことを?」
その目は激しく泳ぎ、目を合わせようとしない。言葉もどこかしどろもどろで、怯えているようにも見える。
「い……いえ。何もないならいいんです」
てっきり、見合いを断った理由でも聞いて来るのかと思った。そうでないなら、何が言いたいのだ。用事もない。縁談の話でもない。
まるで、こちらの顔色を伺うように――。
何かあるのか?
それ以上何かを言おうとするわけでもないのに、立ち去ろうともしない。口元に左手をやり俯いている。
その時、視界に薬指の指輪が入る。左手薬指の指輪が何を意味するかくらいのことは分かる。
目の前の女が、おとなしそうな顔をして一体何を考えているのか。
「薬指の指輪――素敵ですね」
「あ……っ」
すみれが、勢いよくその手を後ろへと隠した。
「それ、左手ですね。いい方がいらしたんですね。すみれさんが幸せになられるのは、私も嬉しいです――」
「違います! 私には九条さんしかいません。あなたがいいの!」
ずっと俯いていたくせに、顔を真っ赤にして声を張り上げた。
ここがどこかわかっているのか。
幸いにも今この廊下を歩いている人間はいないが、いつ誰が通ってもおかしくない。それでも構わない。聞かれて困る話はこっちにはないのだ。
「では、どうして左手薬指に指輪が? 私はそのようなものをお贈りしておりませんが」
「それは――」
「私の早とちりでしたか? 左手薬指と言ったら特別なものかと思いまして。ダイヤモンドですから、余計に意味があるものだと思ってしまいました。ご自分で買われたものなら、大変失礼致しました」
慇懃無礼に頭をさげ、そして、頭を上げるとすみれを見据えた。
「副社長にはこれまで、本当にお世話になってきました。私の尊敬する上司のお嬢様として、幸せになられることを心から願っております」
あなたに丁重に接するのは副社長の娘だから。
理由はそれだけだ。いい加減に察しろよ――。
「すみれさんがご結婚される際はぜひお祝いさせてください。その日を心待ちにしております」
もう一度小さく会釈をして歩き出す。
「九条さんに他に誰かいらっしゃるから、そんなことをおっしゃるの……?」
背後から、そんな言葉をぶつけられる。
本当に面倒な人だ。
「いえ、おりませんよ。あなたがどう思っていようが、それが事実です。勘違いなされませんよう、お願い致します」
「だったら――」
「申し訳ございません。私の気持ちは変わりませんし、これ以上、私がすみれさんに言えることもありません。どうか、ご理解ください。では、失礼します」
すみれに背を向けたと同時に大きく息を吐いた。
やはりすみれには何かある。
とにかく、藤原に探りを入れなければ。
そう、気ばかりが逸る。