冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜
その夜、なんとか仕事を切り上げ藤原と落ち合えたのは21時だった。
「こっちから誘っておいて、遅れて悪い」
「いいよ。今、おまえが大変なのはわかってるんだ」
滅多にないが、藤原と飲む時の店は決まっていた。丸菱の人間が来ない、路地裏のバー。落ち着いていて、隠れ家的な店で安心して飲める場所だった。
「俺もちょうど、九条と話がしたいと思っていたところだったんだ。以心伝心か?」
そう言って笑う藤原に特に反応することなく、ウイスキーのロックを頼む。
「話したいことの一つが、副社長の娘さんのことなんだが、九条の話は?」
まさにこちらが聞こうとしていたことだった。
「すみれさんのこと?」
「そうだよ。おまえは――」
「俺も、すみれさんのことで聞きたいことがあるんだ。おまえから話してくれ」
「分かった」
藤原が少し考えるような顔をして、こちらへと身体を向けた。
「――今月から彼女が勤務し始めているんだが、うちの課に希望で来たんだよ」
「希望って、すみれさんがおまえの課を名指しでってことか?」
藤原が頷く。
「人事課が俺のとこ来て、『副社長のお嬢さんを頼む。ご指名だから』って言われてさ。よくよく彼女の話を聞いてみたら、仕事内容ではなく俺が目当てで彼女が希望したんじゃないかと思えるんだ」
「おまえが目当てって、すみれさんに惚れられたのか?」
むしろそうであってくれればいいと半ば願いながら、冗談半分に聞き返す。
「そんなわけないこと、おまえが一番わかってるんだろうが。彼女は“九条と仲がいい俺“が目当てだったんだ。それを証拠に、彼女から事あるごとにおまえのことを聞かれる」
「……え?」
思わず藤原ことをじっと見つめた。
「おまえのことを探ろうとしてるのか、何かを聞き出したのいか。そんな感じがして妙に気になった」
まさに、副社長が言っていた通りだ。
見合いを正式に断わられたことがすみれには納得できなかった。だから、こちらに何かあるのかと探りたくなって、こうして就職までしたってことか――。
「二人はどうなってるんだ?」
「前にも言っただろ。彼女と結婚するつもりはない」
以前、仕事で法務部に来た時にも藤原に聞かれて、そう答えていた。
「ずっと疑問だった。おまえは女に入れ込むようなタイプじゃない。だったら結婚も割り切ってできるはずなのにって。おまえは副社長のお気に入りだからな。お嬢さんと結婚したら、おまえの丸菱での地位も盤石だろう。こんないい話はないって思ってた」
藤原の話を聞きながらウイスキーを口にする。
「うちの課は今、副社長のお嬢様が来て、男性社員が色めき立って大変なんだよ。さっきも見ただろ? 少しでも気に入られてあわよくばってさ。話しかけたり手助けしたり。彼女、美人だしな」
くだらない――。
「その一方で、彼女の左手薬指に指輪があるのに女性社員が気づいたんだ。九条と副社長の娘はやっぱり結婚するんじゃないかって、噂が大きくなり出してること、ちゃんと知ってるのか?」
「大きくなってる?」
「やっぱり噂じゃなかったんだって、結婚秒読みだってな。まあ、ここ数日のことだ。おまえは今、プロジェクトでそれどころじゃないか」
そういえば、麻子もすみれのことを聞いてきた。
麻子も誤解しているのか――?
「そんなことだろうと思ったらか、おまえの耳に入れておいた方がいいと思ったんだ。社内で九条と自分が噂になっていることを知っていながら、彼女は左手薬指に指輪をはめている。九条には結婚する気がないのに――」
そう言って、藤原がこちらを見た。
「もしかして。おまえ今、付き合っている人がいたりする?」
「どうしてそんなことを聞くんだ」
少し身構えながら問いかける。
「河北すみれがおまえのことを探ろうとしてるって、さっき言っただろう? その中の一つで、おまえの課の中野さんのことを聞かれた」
「――え?」
思わず声が大きくなる。