冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜
この日も朝から目が回るほどに忙しい。メールの返信だけで10件麻子を待ち構えている。
「中野さん、申し訳ないんですけど、このデータ集計やってもらえませんか?」
「え?」
高速で英文メールを打っていると、隣から丸山の声がした。キーボードに置いた指を止めて丸山の方に顔を向ける。
「どの集計?」
「これなんですけど……」
「これ、丸山君の担当分だよね?」
データ入力の仕事だった。単純作業ではあるものの、この課に来たばかりの丸山に取っては、業務に必要な数値を頭に入れられる。それで、丸山の担当にしたのだ。
「本当に申し訳ないんですが、俺が担当してるW社にトラブルがあったみたいで、その対応に追われちゃって。データ集計が期限までに終えられそうにないんです」
「W社とのトラブルって? どういう状況――」
「いえいえ、そんな大事ではないんです。担当レベルで解決できることなんで。ただ時間だけは取られるので、お願いできますか?」
丸山が心底申し訳なさそうに頭を下げる。
「分かった。データ集計は私の方でやっとくから、そっち集中して」
「ありがとうございます! ほんと、助かります」
どこか冷めた丸山にしては珍しく何度も何度も頭を下げて来るから、慌てて丸山の言葉を遮った。
「いいの、いいの。お互い必要な仕事をしてるだけだし、そんな、何度も頭下げないでよ」
「俺の指導係、中野さんでよかったです。めちゃめちゃラッキーですよ」
「そんなこと言ったって、何にも出て来ないからね。ささ、仕事しよ」
「はい」
ほんと、美琴の言う通り。
頼まれると断れないな――。
一人苦笑しながら、メールの返信作業に戻る。
見ず知らずの親戚の家で暮らさなければならなかったあの日々は、中学3年の麻子には過酷なものだった。
『いくら姪でも、これまで会った事もない子なのよ? どうしてうちが引き取らなきゃならないの。突然、知らない子が入り込んで、結愛がかわいそうよ!』
伯父夫婦が言い争っていたのを聞いて、自分が邪魔者だということも分かっていた。とにかく少しでも嫌われないようにと、いつもあの家で役に立とうとしていた。落ち込んで面倒だと思われたくなくて、ただ笑顔でいた。
その頃の習性が染み付いてしまっている。ついつい仕事でも笑顔で引き受けてしまうのだ。