冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜
気付けば15時を回っていた。昼食を取るのも忘れていた。肩はカチコチに固まり腰も重い。
トイレに行った帰りに、同じ階にあるリフレッシュルームに立ち寄った。水筒のお茶ではなく、あったかい紅茶が飲みたくなったのだ。
自動販売機の前に九条が立っているのが見えて足が止まる。九条の姿を見たからと行って、立ち去るのも何か違う。少し緊張しながら自動販売機の前へと進み出た。
「お疲れ様です」
片方の手をポケットに入れ、紙カップをもう片方の手に持っていた。ピンとした背中がゆっくりと動き、九条が麻子を見る。
「――昼食はどうした」
「え……?」
脈絡のない質問に、意味が分からなかった。
「昼は食べたのか?」
「あ……い、いえ」
思いもしなかった言葉に、つい正直に答えてしまっていた。
「午前中に急な案件が入って来たという話は聞いてない。他課からの急ぎの依頼もなかった。昼を抜くほどの状況ではなかったはずだが?」
レンズ越しの目に、身体が硬直する。九条の視線は、それを向けられるだけで反射的に緊張してしまうのだ。
「それは――」
「今度は、丸山の手助けか?」
え――?
それはどういう意味だ。
鋭く冷めた眼差しで見下ろされて、混乱の中言葉が出て来ない。
「昨日の田所さんに修正依頼した資料。直したのは君だな?」
課長にばれていた。でも、どうして――?
上手く処理したはずだ。
どう答えるべきか分からないのに、脳内では激しく言葉が飛び交う。
「君の手助けが全く本人のためにならないことがあると考えたことはあるか。本人どころじゃない、会社にとっては大迷惑だ」
"大迷惑"という言葉が、ひっかかった。
「確かに、勝手に手出ししたことは謝ります。ですが、あの会議は重要なものでした。会議までにあの資料が準備出来ていなければ業務に支障が出ます」
課長の言いたいことも分かる。でも、あの場に資料が準備されていないことの方が問題だ。仕方がなかったとは言えないのか。
「それでも本人に最後まで責任を持たせる必要がある。それにだ。君が勝手に手伝えば、田所が資料の一つも準備できない社員だと正当な評価が下せない。それは、今後の人事において重大な支障だ。ひいては、社に大きな損害をもたらす可能性だってある」
何の言葉も返せなかった。自分のしていることがどういうことになるのか。そんなことまで考えたことはなかった。
「田所が午後までに修正を終えられないことくらいわかっていた」
九条の言葉にハッとする。分かっていたということは、課長が既に必要な資料は準備していたということだ。田所に不備があっても問題がないように。
「今後は、私の許可なく勝手に手出ししないように」
吐き捨てるようにそう言うと、九条は麻子に背を向けた。
「何も考えずに、余計なことをしました。大変申し訳ございませんでした」
立ち去る九条に慌てて頭を下げる。
あの人は全てを把握している。課内の仕事一つ一つの状況から、一人一人の仕事ぶりまで――。
有能だというのはわかっていた。でも、それをまざまざと見せつけられる。
結局、紅茶を買うのも忘れて自分の席に戻って来た。椅子に腰掛けようとした時、デスクの上に固形の栄養食品が置かれているのが目に入った。
「……これ、丸山君?」
黄色い長方形の箱を丸山に見せる。
「いや、俺じゃないですけど。俺も今戻って来たところですが、もう中野さんのデスクの上に置いてありましたよ」
「そう……」
誰だろう。
チラリと課長の席を見る。
いや。それはないな。
心の中で無意識のうちに湧き上がった可能性をすぐさま打ち消した。