冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜


「俺も、その名前が出てきて、唐突で驚いた」
「何を聞かれたんだ」

つい前のめりになった。

「彼女の経歴とか、おまえとの繋がりとか。そんなこと聞かれても、今の中野さんのことなんて、おまえの部下だってことしか知らない。それ以上答えようがない。ただ問題なのは、どうして彼女の口から中野さんの名前が出てくるかってことだ」

まさか。麻子とのことを勘づかれているのか――?

「俺にははっきりとは言わなかったが、明らかに、おまえとの間に何かあるのかと疑っているようだった」

でも、どうして――。

「とりあえず、九条が部下に手を出すような人間ではないってことを強く言っておいた。何よりも仕事を第一に考える人間だから、そんな公私混同はしないとな」

すみれに麻子のことを気づかれていいことなど何もない。ただでさえ社内に誰か相手がいるのではないかと疑われている。麻子のことが、副社長の耳にでも入ったらどうなることか。

藤原のおかげで、少なくともすみれが麻子のことを疑っていることが分かった。

より気をつけなければ――。

「もし何か気になっているとしても、それは考え過ぎだと言ったよ。中野さんは九条の部下だし、多少親しくしていても不思議じゃないとな」
「そうか」
「中野さんの名前を出すのが唐突だからこそ、それは彼女にとってのデタラメなんかではなく、重い事実になっているはずだ。とりあえず、河北すみれの動きには気をつけておいたほうがいい」

“重い事実――“

無意識のうちに手のひらを額に当てていた。

「――九条。だからこそ俺も、重い事実だとして受け止めた」

こちらを凝視する藤原に気づく。

「おまえがプライベートを他人に話すような人間ではないって知ってるから、これ以上は聞かない。これから俺が言うことは、勝手な妄想の独り言だと思って聞き流してくれ」

そう言って、藤原が顔を正面に戻した。

「中野さんとのことは、ここでやめておけ。もし副社長の耳に入ったら、おまえだけでなく中野さんも無傷じゃいられない。おまえは、まだいい。地位も実績もある程度あるから、多少叩かれてもいずれは元の場所に戻って来られる。でも、彼女は違う。おまえ以上に追い詰められる。最悪、退職に追い込まれるかもしれない」

そんなことはわかっている。
だから突き放したのだ。

「――でも、それはあくまで、“今は“ってことだ」

そこまで言葉にすると、藤原がゆっくりとこちらに視線を向けた。

「俺の知っている九条は、部下どころか社内の女と親密になるような男じゃない。それは、おまえが徹底したリアリストだからだ。理性より感情に身を委ねてリスクを抱える男じゃない。そんなおまえが中野さんと付き合ったのなら、それは相当のことだ。それだけ彼女が特別だったってこと。この先、おまえのような男には、そんな存在現れない。だから絶対に手放すな」

藤原の声に熱が帯びる。

「ただ、直属の上司と部下である今はまずい。ただでさえプロジェクトを抱えている。彼女を守るために今は耐えろ。河北すみれとのこともほとぼりが冷めて、いつか最適なタイミングが来たら、その時に結婚でもなんでもすればいい。中野さんも、本当におまえのことを想っているなら、理解して待っていてくれるだろう」
「……妄想も甚だしい。小説家にでもなったらどうだ」

グラスの中の氷を揺らすと、カランと音がした。

「妄想にしちゃあ、リアリティがあるだろう?」

藤原が笑いながらグラスを口にする。

「副社長の娘から中野さんのことを聞かれた時、ふと思い出したんだよ。以前、中野さんのミスをおまえが謝りに来た時のこと。それで、この壮大なストーリーが浮かんだ」

そう言って笑う。

「新入社員の頃の中野さんを思い出しては、一人納得したりして。若いのに必要以上に地に足ついちゃってるっていうか、苦労性というか。他の子とどこか違ったから。ああ、あり得るかもなって一人でニヤニヤした」
「妄想して一人でニヤつくとか、気持ち悪いからやめろ」

どうにか絞り出した言葉に、藤原がさらに笑った。


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