冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜


「俺の壮大な妄想はハッピーエンドで終わりたいんだよ」

笑いながらもその目が真剣なのがわかる。

「俺は、九条が愛に溢れた人生を送るのを見たいんだ」
「バカなことを」
「この冷徹男がメロメロのデレデレになっている姿を見て、爆笑したい。だから、絶対別れるなよ」

俺は、そんな器じゃない――。

「九条と中野さんの関係は、まだ、社内で気づかれていないと思う。一切耳にしたことはないからな。今から、しっかりおまえが守れよ」
「いつまで、おまえの妄想を垂れ流すもりだ。いい加減にしろ」
「だから。俺の独り言なんだから、聞き流せと言っただろう」

そう言って、藤原は結局笑っていた。

「――ところで、九条の話は?」
「おまえの話で聞きたいことは大体聞けたよ」

こちらが聞くまでもなく、藤原方から今の状況を詳しく話してくれたようなものだ。

「じゃあ、俺からもう一つ話がある」
「なんだ」
「俺、結婚するから。結婚式には来てくれよ。おまえに友人挨拶を頼む。最大限の賛辞を送ってくれ」
「――は?」

それこそ突然の報告に、間抜けな声を漏らしてしまう。

「俺は愛に溢れた人間だからな。惚れた女は一生そばに置いておきたいの。誰にも取られたくないし、何より自分の手で幸せにしたい。他の誰かと幸せになってくれたらいいなんて、絶対に思えない」

藤原がそんなことを宣言する。

「いつの間に酔うほど飲んでたんだ」
「酔ってない。真剣だ」

――結婚。
普通に生きていれば、人生のどこかでたどり着く結論なのだろうか。

藤原の両親に会ったことがある。ファンタジーの世界だと思っていたものが、そのままそこに存在しているみたいだった。

それを見ても、やはり自分にとってはファンタジーでしかなかった。

麻子も。結婚を当たり前のようには考えられないと言っていた。そんなところも似ていたのかもしれない。

「おめでとう。藤原なら大丈夫だろ。無駄に愛に溢れてるからな」
「『無駄に』が、余計だ」

目の前の男が、自分よりずっとずっと大きく見えた。

そんな風に、躊躇いなく言えたら。

麻子はどんな顔をするのだろうか――。

意味のない仮定に、胸の中が苦々しいものでいっぱいになる。

守るために、突き放すことしかできない。
そんな愛し方しかできないのだ。


 結局酔っ払った藤原をタクシーに乗せた。

 そのタクシーを見送りながら、立ち尽くす。

 ウィークデーの繁華街。仕事を終えたサラリーマン、同じように飲んだ後だとわかるグループ、恋人同士のような二人連れ。ひっきりなしに人が行き交う。
 これまでは、そんな風に周囲の景色に目も向けず、余計なことも考えずに目の前のことだけを見て生きてきた。
 
 見知らぬ人を見ながら、誰かを思い出して重ねたりすることもなかった。

 上司と部下から、特別な関係になった日のことを不意に思い出す。

『課長は以前、部下には手を出さないとおっしゃっていましたし、違うなら違うとはっきり言っていただけると、大変助かるのですが』

抱きしめてマンションに泊まらせたのに、翌日、麻子はそんなことを言ってきた。

あの時、『そういうつもりはなかった』と言ったら、本当に引き下がりそうな勢いだったな……。

一人笑いそうになったけれど、すぐに深く重い息が漏れた。

 愛おしくてたまらなくなって、自分のものにしてしまった。
 自分の立場をわきまえて、決してわがままを言わない。それなのに、何度も自分の想いだけは真っ直ぐにぶつけてくれた人。

 なのに、中途半端に優しくして、最後はこうして手放すつもりでいたのだ。麻子は何も悪くないのに、結局最後は泣かせることしかできなかった。

 せめて、その責任を取らなければ。すみれの思惑から守ってやらなければならない。

 どうしてすみれが麻子にたどり着いたのか。

はっきりと名前を出すということは、それ相応の証拠を掴んでいるということ。

どうせ、興信所でも頼んだのだろう。

どうやって、あの口を封じ込めるか。
どんな手を使ってでも、周囲に余計なことを言わせないようにしなければならない。

『課長、私、精一杯頑張りますから!』

星もよく見えない夜空に、麻子の笑顔が浮かんだ。


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