冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜


「――来週頭には、具体的な数値を提示したいところだな。どのあたりまで勝負するか、算段はあるのか?」
「はい。これまでの相手の出方と、弱点から分析をしております。後ほど、資料をお持ちして説明に参ります」

役員説明を終え、営業本部長と共に廊下を歩いていた。

「そろそろ契約も大詰めだ。最後まで気を抜けないな」
「終わりが見えてきた時こそ、緊張感を持つべきです」
「鉄壁の君らしい」

本部長が、そう言って笑うと話題を変えた。

「そういえば、君、結婚するんだって?」

笑ってはいても、目は全く笑っていない。そんな表情だった。

「いえ、そんな予定はありませんが」
「まあ、そうか。かなりセンシティブな話だからな。正式に発表されるまでは君の一存では簡単に口を開けんよな。それにしても、副社長の娘さんにみそめられるとは、さすが九条君だ」

藤原と話しておいてよかった。どこかで、そんなことを言われるであろうことが、ある程度は想定できていた。

「副社長の義理の息子となれば、より君の強い味方になってくれる。これから先、仕事を進めていくのにこれほど力強い後ろ盾はないな」

勝手に事実だとして話を進める。本部長の話ぶりで、この話がどれだけ信憑性あるものとして出回り始めているのかがわかる。

「そうなれば、社長の椅子だって狙えるなぁ」
「そんなもの、恐れ多くて狙っておりません」
「嘘をつけ! それにしても――」

今度は豪快に笑う。そのあと、本部長が意味ありげに顔を近づけてきた。

「君はたいそう社内で人気があるみたいだな。女子社員が騒いでいたぞ。まあ、君なら女も放っておかないだろう。一体、どれだけ遊んで来たんだ?」

男が内輪で下世話な話題をする時の笑み。

「とんでもありません。仕事で精一杯ですよ。そんな余裕はありません」
「ふん。そんなこと言って、君が腹黒いのは知っているよ。まあ、結婚前に身辺整理はきちんとしておけよ」

最後まで自分の言いたいことだけを言った本部長と別れ、執務室に戻る時だ。

 執務室の出入り口から少し離れたところで、女性社員数人が声を潜めきれずに話をしていた。
 特に気に留めず執務室に入ろうとしたとき、その集団の中に麻子がいるのに気づいた。それと同時に会話が耳に届く。

「――副社長のお嬢さんの河北さん。左手に指輪してるんだって」
「私、本物見たよ」
「それって婚約指輪だよね。やっぱりあの二人、結婚するんじゃない」

ここでも同じ話題だ。耳にもしたくないが、スルーできないのは麻子がいるから。

「昨日、法務にいる同期から聞いたの。九条さんも、とうとう身を固めちゃうのね」
「でも、河北さんも、結婚決めてるのにわざわざウチで働き始めるってどんな状況? これから夫婦になるっていうのに、なんかおかしくない?」

本人たちは声を潜めているのかもしれないが、会話に夢中になるあまり次第に声が大きくなっているのに気づいていないのだろう。

「それはやっぱり、心配だからなんじゃないの? だって、あの九条さんだもん。『誰にも手を出させないわよ!』っていう牽制のためだよ」
「副社長の娘の婚約者なんて、怖くて誰も手なんか出せないよ。どんな報復にあうかわからない」
「私は、娘さんがそれだけ必死になるのも分かる気がする。九条課長って、孤高な感じしない? そのせいで“手に入らない感“ハンパないし。何があっても取られたくないって思うわ」
「確かにー。ねぇ麻子、何か聞いてないの? 今、麻子の上司でしょう?」

麻子――。
ずっと黙ったままで、その表情をひどく硬くさせているのがわかる。

「そんなプライベートのこと知らないし。ごめん、今忙しいから、そろそろ行くよ」
「そんなケチなこと言わないでよ。麻子なら何か知ってるかと思って来たんだから」
「いいなぁ。九条さん、冷たそうな顔して河北さんには優しいのかな。婚約指輪、すっごく素敵だったのー。愛されてるんだね」
「河北さん、育ちもいいし綺麗だし。悔しいけどお似合いだよね。結局、いい男はそういうところに持ってかれちゃうのが現実」
「私、本当にもう行くから――」

泣いているわけでもないのに、麻子が泣いているように見えて。この身体が勝手に動いていた。

「――まだ昼休みではないが、君たちはそんなに暇なのか?」

麻子の見開いた目がこちらに向けられる。それはすぐに怯えたものになった。

< 193 / 252 >

この作品をシェア

pagetop