冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜
「……九条課長!」
麻子に続いて、そこにいた女性社員が一斉にこちらを向く。
「す、すみません!」
揃いも揃って、あたふたと激しく目を揺らし焦り出した。
「本人に聞かれそうな場所で、それも勤務時間中、そんな話をするのは非常識だとは思いませんか?」
「失礼いたしました!」
そう言って女性社員が頭を下げるのに遅れて、麻子も頭を下げる。
「私の部下の仕事の邪魔をしないでくれ。彼女は今、忙しい身だ」
「た、大変、申し訳ございません!」
こうして既成事実を作るかのように外堀から埋めていこうというのがすみれの魂胆なら、麻子のことを口外するとは思えない。すみれ自ら自分を惨めな立場にするようなことは言わないだろう。
いっそのこと、麻子がインドネシアに赴任するまで、否定も肯定もせず噂を流したままにするか――。
その後に、はっきりと否定すればいい。
それに。
麻子がインドネシアにさえ行ってしまえば、遠い異国にいる身だ。もしすみれが暴露するようなことがあっても、被害は少なく済む。
ここで、すみれを刺激したらヤケを起こすとも限らない。この状況で麻子との関係を明るみにされたら、麻子を悪女に仕立て上げられる可能性がある――。
麻子はずっと頭を下げたままで、その表情はわからない。
「中野さん、君に頼みたいことがある。ちょっと来てくれ」
「は、はい」
そう嘘をついて、そこから連れ出した。
「――この年度分のこの資料、資料室から持ってきて欲しい」
急いで適当に書いたメモを麻子に渡す。
「はい、承知致しました」
麻子は決して目を合わせようとはしなかった。それが、噂を信じているという何よりの証拠だろう。
だからといって、ここで弁解するわけにもいかない。どこにすみれの目があるかわからない。社内で二人きりになるのはまずい。
とりあえず、メールを送ることにした。
【社内で噂になっていることは全て事実とは違う。会ってきちんと説明したい。君の都合のいい時で構わない。連絡をくれ】
その日、麻子からの返信はなかった。
翌日、土曜日。午前中はオフィスにこもって、溜まっていたデスクワークをこなした。
プロジェクトメンバーから上がってきていた会議資料や報告書に目を通すが、さすが選ばれたメンバーだけのことはあって、それはどれも完成度が高い。
その中でも、飛び抜けて出来がいいのが、麻子が担当したものだ。贔屓目なしにそう断言できる。
これまでアドバイスや指摘して来たことが、全てそこに反映されている。さらに、自分なりの工夫も随所に見られた。
その資料をじっと見つめる。
どれだけ麻子が真剣に取り組んでいるかが手に取るようにわかる。
何があっても、歯を食いしばってやり通す人間だよな……。
『体力と根性だけはあるので』
そんなことをいつか言っていたか。
結局、麻子からの返信はないままだ。
スマホのディスプレイに表示されている時刻は、正午を過ぎていた。
本当は一日仕事をするつもりだった。けれど、集中力の糸が切れ、意識が仕事に向かない。
どうせこのまま仕事を続けても、パフォーマンスは落ちる。仕事を切り上げることにした。
オフィスから、そのままマンションに戻った。玄関の鍵を開けると、女性ものの靴が視界に入る。
麻子――。
ドクドクと急に鼓動が速くなる。