冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜
「……麻子」
「え……っ?」
リビングダイニングに足を踏み入れると、麻子がその表情を強張らせた。
「か、課長……午後も仕事だと――」
明らかに動揺している。
それは、いない隙を狙って来たということ。つまり、会いたくなかったということだ。
「ああ。その予定だったんだが、切り上げた」
「そ、そうですか」
取り繕うように手を動かし始め、こちらに背を向けた。
「私は、荷物を取りに来て。でも、もうおおかた終わったので、すぐ失礼します」
「昨日送ったメール。届いてないのか?」
バッグとスーツケースを手にした麻子の背後に立つ。
「連絡が欲しいと送ったんだが、時間がなかった?」
「すみません。でも、大丈夫ですから」
「何が? 何が大丈夫なんだ」
こちらに振り向こうともしない。その肩を吊り上げて、身体に力を込めている。
「副社長のお嬢様のことですよね。それなら、いいです」
「君がよくても、私はよくない」
その肩は頑なだ。
それだけ、麻子を傷付けたということ――。
「私とすみれさんの間には何もない。彼女がしているという指輪も、本人のものを勝手に左手にしている。私と彼女が結婚するという話が出回っているようだが、それも事実無根だ」
こちらを拒むかのような背中に、言葉を吐き続ける。
「ただ、すみれさんが私と君の中を疑っているようなんだ。おそらく、興信所でも使って調べたのだろう」
何も言わない麻子が、今、何を思っているのか。
表情すら見せないから、読み取ることもできない。
「だからこの際、その噂をカモフラージュとして利用しようと思っている。そうすれば、すみれさんも余計なことを言わずおとなしくしているだろう。私たちの関係を周囲に絶対に知られるわけにはいかないからな」
「わかりました。それでいいです」
背を向けたままの投げやりな声。
「麻子、こっちを向け――」
たまらなくなって肩を掴んでこちらへと身体を向けさせた。