冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜
麻子の表情は、何かを堪えるような耐えるようなもので。その顔を見たと同時に胸が激しく痛んだ。
「河北さんと課長の仲が、噂だろうが事実だろうが、私にとって何か変わりますか?」
真っ直ぐにこちらに向けられた目は、酷く苦しそうだった。
「課長は、私を必要とはしてない。そばに置いてもいいけど、いなくてもいい。結局、そんな存在にしかなれなかった。あなたの、心の奥の奥にあるテリトリーには、入れてもらえなかったことには変わりない」
"君が嫌ならいつでも解消しよう"
自分で麻子に告げた言葉だ。
「最初からわかっていたし、これ以上を望んだら贅沢だって思ってたのに、だんだん欲張りになっちゃったみたい。こうなった今も、課長からはっきりしたことを言われたくなくて逃げてるんです」
「麻子――」
「完全に終わらせられなくて、曖昧なままにしておきたかった。どうしても、課長の恋人の座を失いたくなかった……っ」
乱暴に目を擦り、涙を溢れさせながら麻子が歪んだ笑みを浮かべた。
「未練がましくて、みっともなくて。きっと、課長が一番嫌いなタイプですよね。でも間違っても、課長と付き合っていたなんて言いません。だから、心配しないで。私は、課長を困らせるようなことするつもりない。そんなこと、私にはできない」
「そんなつもりで、言ったんじゃない!」
麻子は誤解している。
「君を――」
咄嗟に出た声も、その続きを言葉にできない。
守るためだと言って。
本当は君のことを愛していたと言って。
それでどうなる?
麻子の言う通り、どうせ手放すことには変わりないのだ。何を言っても、ただの言い訳でしかない。
「……君に口止めするために言ったわけじゃない。そんなこと、思ってもいない。ただ、事実を知って欲しかっただけだ。
もし、すみれさんが君に接触して来るようなことがあったら、すぐに言ってほしい」
結局、そんなことしか言えない。
「――わかりました。私、もう行きます」
その声が微かに震える。
「お世話になりました」
麻子がおもむろに何かを差し出した。
「……この部屋の鍵です。早く返さなくちゃと思いながら、遅くなってしまって、申し訳ありません」
何かに操られているみたいにその鍵を受け取る。
「私を受け入れてくれて、助けてくれてありがとうございました」
“受け入れてくれて、助けてくれてありがとうございました“
それが麻子から見た感情――。
その言葉を聞きながら、この部屋で二人で過ごした時の麻子の笑顔が同時に浮かんでいた。
「本当に……ありがとうございました」
深々と頭を下げて立ち去る麻子を見送る。
無意識のうちに握りしめていた手のひらに力を込めたのは、この手が動き出さないためだ。
殺風景だった部屋を温もりある場所に変えた彼女のものは、麻子と一緒に全て消えた。
胸の痛みも何もかも、人の感情のすべてを彼女が教えてくれた。
それでも。
自分が誰かを幸せにする術を知らない。
こんな風にしか愛せない。
そこからいつまでも動けない、幼い頃の孤独な子供のままだ。