冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜
「本当に、終わっちゃった……」
古いアパートの部屋にたどり着くなり玄関で座り込む。
九条のマンションを飛び出した日から、ずっと曖昧にして逃げてきた。現実を受け止めたくないからだ。
九条との関係を完全に終わらせたくなかったという悪あがき。
でも、九条に好きだと言ったのも、部屋を飛び出してたのも、心が欲しくなったのも、全部自分。
そう、全部自分だった。
九条ではなく。
膝に額を擦りつけ涙を堪える。
最初は、ただ、そばにいられるだけで有頂天になった。少しでもあの人の特別になれたような気がして、信じられないくらいに幸せだったのに。どうして、心まで欲しいと思ってしまったんだろうか。自分が想うように愛して欲しいなんて傲慢なことを思ってしまったんだろうか。
そんなことを望まなければ、まだ、課長と一緒にいられたかもしれない――。
後から後から後悔が押し寄せる。
後悔が押し寄せても事実が押しつぶす。あの人の特別にはなれなかった。
どれけ苦しくても、月曜日はやってくる。仕事からは逃げられない。それが社会人というものだ。
鏡の前で髪を整え、自分の顔をまじまじと見る。
ほんと、ひどい顔――。
目のクマにコンシーラーを塗りたくったら、そこだけ厚塗りになってしまった。肌色はくすみカサついている。
チェストの上にある腕時計が視界に入り、すぐにそこから目を逸らす。 そして、これまで使っていた腕時計を手首に通した。
「――おはようございます」
「あ、おはよう」
朝のリフレッシュルーム。執務室に行く前に飲み物を買おうと立ち寄ったら、自販機の前に丸山がいた。誰よりも早く出勤しているつもりだが、最近では丸山の方が早いことも多い。
「中野さん、顔色悪いですよ。体調、悪いんじゃないですか?」
「そう、かな。あ……でも、最近仕事がキツイからかも」
なぜか丸山からじっと見られているような気がして、視線を自販機に向けた。並んだペットボトルを見つめながら丸山の視線を誤魔化す。
「仕事がきついのは今に始まったことじゃないです。俺は、一日の大半、中野さんの隣にいるんです。隠せると思ってるんですか?」
自販機に手をついたのに気づくと、すぐ間近に丸山の顔があった。無造作に整えられた前髪から覗く目に焦る。
「べ、別に、隠してなんか――」
「だったら、ちゃんと俺を見てください」
いつもは飄々としてどこか冷めていた眼差しが、全然違うものになっている。そんな丸山の視線に、最近居心地の悪さを感じる時がある。
「……丸山君、近い。近いよ――」
「俺はいつも、中野さんの助けになりたいって思ってる」
咄嗟に身を引こうとしても、丸山のストライプのネクタイが目の前にあって慌てる。
「男として、まだまだだってわかってる。でも、仕事のことでもプライベートでも、あなたに頼られたい。いつもそう思ってます」
「プライベートって……」
「少しは気付いてますよね? 俺の気持ち」
丸山くんの気持ち――。
「な、何言ってるの。先輩をからからかうもんじゃないよ――」
「そんな風に冗談にしないでください」
焦りから咄嗟に付いて出た言葉はすぐに遮られた。
これまではっきり言われたわけではない。
けれど、本当に何も感じなかったのか。
いくつか丸山の感情が垣間見えた出来事はあった。重く受け止めないようにと、無意識のうちに考えないようにしていただけだ。