冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜

「本当は今すぐにでも告白はしてしまいたいけど、今はしません。今の俺では断られるってわかってるから。でも、いつか――」

さらに一歩近づいた丸山の身体が迫り、自販機を背に追い詰められる。

「はっきり中野さんに伝えるつもりです。その時までに、もっともっと成長するから。その時は、俺の話を聞いてください」

その真っ直ぐで真摯な眼差しを、もう冗談にすることはできなかった。

「今は、プロジェクトであなたをサポートすることに専念します」

そう言って、その間近に迫った身体が離れていった。
丸山の背中を見つめる。これまで見てきた後輩のものとは全然違って見えた。

「丸山君……っ」

このままではいけないような気がして引き留めた時には、もうその背中は消えていた。

 その代わりに現れたのは九条だった。
 その顔を見た瞬間に、身体が強張る。心臓は大きく跳ね上がり、胸がドクンと鋭い痛みを感じた。
 咄嗟に逃げ出したくなるのを、寸でのところで自分を止める。ここは職場だ。あくまで九条は上司。課長なのだ。目の前にするだけで、こんなにも平静を保てなくなる自分に呆れる。

それなのに、目の前の人は――。

「おはよう」

レンズの向こうの切れ長の目は、ピクリともしない。
その声も表情もただの上司のものでしかなかった。

私とは全然違うのだ――。

そのことに打ちのめされる自分に、さらに傷ついた。

「おはようございます」

こんなみっともない自分を見られたくない。素早く頭を下げそこから立ち去る。

「――丸山なら、資料室の方に向かったみたいだが」

背後から低く落ち着いた声が投げかけられる。それにどう答えたらいいのか分からず、小さく会釈をして駆け出した。

 リフレッシュルームから離れて、ようやく立ち止まる。乱れた呼吸を整えるように胸を撫でてもおさまらない。

飲み物を買おうと思って立ち寄ったのに、結局何も買わないで。何をやっているんだろう。

手のひらで乱暴に髪をかきあげる。

こんなんじゃダメだ。

頭ではわかっているのに、九条に会うのが辛い。

プロジェクトも、第一段階の佳境に入っている。こちらの描いている事業がどれだけ通るかの正念場だ。

余計なことを考えている場合じゃない。
任されいる仕事も、責任のあるものだ。

求められたパフォーマンスができなければ、他の社員に示しがつかない。

しっかりしろ。

大きく息を吸って、身体全部で息を吐き出した。

 仕事だけは、何があってもちゃんとしろ。そうやって生きてきた。

 仕事になれば、自分の精神状態にお構いなく怒涛の業務が待っている。それが今の自分にはありがたかった。

「中野、融資条件の最終ライン、確認できてるか?」
「大枠はOKもらってるんですが、最終確認しておきます」
「その報告、今日の午後で」
「はい」

電話を肩に挟んだ秋元から声が飛んで来る。パソコンで資料を作成しながらそれに答えた。キーボードを叩く音がさらに大きくなる。

「――丸山君、午後イチで会議室押さえておいて。ミーティングになるから」
「わかりました」

あれから、丸山もリフレッシュルームでのことは態度にも表情にも出さない。そこは彼も大人だ。状況を弁えてくれている。その横で電話が鳴る。

受話器を耳に当てると、英語が聞こえてきた。相手はインドネシアのI L社だった。このプロジェクトの最重要パートナーだ。

こうして仕事に没頭していれば、いつかは思い出になる。今はまだ胸が激しく痛んでも、いつかかすり傷のかさぶたみたいになる日が来る――。

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