冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜
契約書のチェックをお願いするため、法務部に向かっていた時だった。
「――おまえ、昨日の会議、ボロボロだったらしいな」
エレベーターホールの片隅から男性の声が聞こえて来た。
「もう最悪だっての。会議資料にほんの少し不備があっただけ。それも、ちゃんと会議までには修正間に合わせたんだぜ? なのに、いちゃもんみたいに俺の説明に難癖つけて来てさ。マジで、うちの課長性格悪い」
この声は田所だ。そう言えば、この数時間姿を見ていなかった。
「おまえ、言葉慎めよー」
そう言いながらも数人で笑い合っている。
「あんな鉄仮面、よく商社マンとしてやって来たよな。うちの仕事はノリが命だろ?」
「ノリだけではやってけねーんだよ。大体、おまえの修正が酷かったんじゃねーの? だから九条さんもご立腹だったんだろ」
「そんなわけない。うちの“なんでも麻子チャン“が代わりにやってくれたから。あの子の仕事は確かだからな」
え――?
咄嗟に壁に身を隠した。
「ああ。おまえのこといつも助けてくれる子だっけ」
「俺だけじゃないよ。誰に対しても、どんなことも、笑顔で『分かりました』って引き受けてくれんのよ。最近じゃ、頼めるものは大体頼んでる」
「うわー、おまえ、サイテーだな」
胸に抱えていたバインダーをぎゅっと握りしめる。
「何言ってんだよ。感謝の気持ちはちゃんと持ってる。いつも、ありがとーって礼を言ってるよ」
「礼を言うのなんて当たり前だろ。飯くらい奢ってやってるんだろうな」
「なんで? 口説くつもりのない女に金出すとか、ないない」
「おまえ、地獄に落ちるぞ。おまえみたいな奴があの課にいられんの、その子のおかげじゃん」
ドクドクと心臓が嫌な音を立てる。
「バカだな。俺の名前で俺が出した成果だ。そこに至るまでにどんな手段を取ったかってだけだろ?」
別に見返りを求めて助けて来たわけでもないし田所のためだけにしていたわけでもない。仕事上、必要なことだからだ。それなのに、この、心に渦巻く感情はなんなのか。
田所とは一年間共に仕事をして来た。毎日顔を合わせて、同じ仕事を担当して。
田所さんは、あんな風に思いながら私と接していたのか――。
振り切るようにその場を離れた。