冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜
この場をうまくやり過ごさなければ大変なことになるとわかっているのに、何の言葉も出てこない自分に怒りと焦りで頭が真っ白になる。
「へ、変なこと言わないで。それより、仕事中だから帰って――」
「“カレシ“って、麻子のか? どいつだ!」
無理やり押し出した弱々しい声は、伯父の治郎の怒号でかき消された。
「この人」
結愛が笑みを湛えたまま九条を指差した。
「結愛ちゃん――」
「お話が全く見えないのですが。人違いではないですか?」
まるで叫びのような麻子の声を、淡々とした九条の声が遮る。
「でも、麻子ちゃんの家で私と会いましたよね? あなたで間違いないです。あー、そっか。二人は会社では秘密にしてるってことか。ごめんなさーい。私、そんな事情知らなくて」
結愛が大げさに肩をすくめて頭を下げた。それと同時に、そこにいた同僚たちのざわめきも一際大きくなった。
「バカなこと言ってないで、お願い、もう帰って。今、仕事中なの」
「麻子、結愛がおまえのせいでどれだけ酷い目に遭ったのかわかってるのか! それなのに、おまえは職場でも恋愛とはいいご身分だな」
こちらの話などさらさら聞く気はないのだ。治郎が頭を下げる麻子の肩を強く掴んだ。
「親のいないおまえをここまで育てて面倒を見てやったってのに、従妹の一人も助けてやれねーのか。こんなご立派な会社で働いてるからって、もう俺たちとは関係ないとでも言いたいのかもしれねーが、そうはさせねーよ。男にうつつを抜かしてる暇があったら、結愛を助けてやれ!」
多くの社員や取引先の人間が行き交うロビーに治郎の声が響き渡った。
「お父さん、麻子ちゃんを怒るのもそれくらいにしてあげて? 麻子ちゃんだって、恋愛くらいしたっていいでしょ?」
甘えたような声と慈悲深い女神みたいな笑み。
「そんなことはどうでもいいから、お金準備するって約束してくれる? そうしたら帰ってあげるから」
でも、結愛は女神とは程遠い言葉を吐いた。
(課長と付き合ってるって……本当? 嘘でしょ)
(この状況、何? 修羅場?)
(中野さんってご両親いなかったの?)
同僚からの不躾な視線、周囲の人間からの好奇な視線、結愛のほくそ笑むような表情が、そのまま身体中に矢のように突き刺さる。
「……もう、やめてください。お願いします」
そして何より九条に迷惑をかけてしまったこと。こんな状況になって、消えてしまいたくなる。
「頭を下げりゃいいってもんじゃねーぞ」
「――ここがどこかお分かりですか? 申し訳ありませんが、お引き取りください」
見つめる足元に人影が重なった。
「なんだと? 俺は伯父でこいつも家族だ。おまえ、麻子の男だからって、庇うのか」
「中野さんは私の部下です。勤務中ですから、彼女は今私の管理下にある。親族であろうが、私の許可なしに業務から離れることは許しません」
「なっ――」
決して感情的ではない。なのに、周囲の人間全てを黙らせる威圧感に満ちた九条の声だった。
「これ以上、ここででたらめなことを言って騒ぎ続けたら、警備員を呼んであなた方を追い出してもらうことになりますが、それでもよろしいですか?」
治郎が顔を真っ赤にして唇を噛み締めている。
「……ご理解いただけたようですね。部下のご家族だとのことなので、これ以上大ごとには致しません。表までお送りいたしますのでお引き取りください。さあ、行きましょう」
「課長――」
「君たちは先に戻っていてくれ。中野さんも」
有無を言わさぬ九条に、言葉を飲み込む。
別れてもなお、九条に迷惑をかけるだけの存在なのだ。