冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜


 執務室に戻るまでの間、意識してなのか、ロビーで繰り広げられた光景について、プロジェクトメンバーたちは誰も口にしなかった。

 そうであっても、この事実が無かったことにはならない。

 九条との関係は、絶対に同僚に信じさせてはいけない。でも、結愛があんなにもはっきり宣言してしまったのだ。どう弁明することが最善なのかわからない。

「私の家族がお騒がせして、本当にすみません。私の従妹なんですけど、課長のことを別の人と勘違いしたみたいで。あの子、いつも早とちりで困るんです」

引き攣る顔をうまく動かせない。こんな言葉で信用させられるとも思えない。同僚たちも、顔を見合わせて苦笑するだけだ。

「そうなんですね。びっくりしましたよ! 確かに、課長と中野さんが付き合ってるなんて、想像したことすらないし。それにしても、九条課長に似てるなんて、どんな知り合いですか」

丸山一人がそう笑ってくれた。その気遣いに泣きたくなる。

 結愛と治郎の二人を見送ると言っていたが、九条は二人にどう対処したのだろうか。自分の席についてもそのことで頭が一杯だった。


 15分ほどして、九条が席に戻ってきた。すぐに九条の席に赴く。

「先ほどは、大変失礼致しました」

九条を前にして勢いよく頭を下げた。

「突然訪ねて来てあんな風に公衆の面前で喚くのは、いくらなんでも非常識です。君の親族にTPOを弁えるように伝えておきなさい」

頭上からは、感情など一切排除された冷淡な声が聞こえて来る。

「多大なるご迷惑をおかけして申し訳ございません」

周囲の人間、特にあの場にいたプロジェクトメンバーが聞き耳を立てているのが空気からわかる。

だから――。

だからあえて九条は冷たく言い放っているのだ。二人の関係を怪しまれないように。

「もう業務に戻ってください」
「本当に、申し訳ございませんでした」

もう一度深く頭を下げ、自分の席へと戻る。その間にも、痛いほどの視線を感じた。
 
 九条とあの二人が一体どんな会話をしたのか、確かめなくてはいけない。それによっては、あらためて九条に謝る必要があるし、あの二人と話をしなくてはならないかもしれない。

『お金準備するって約束してくれる?』

結愛のあの言葉。何か面倒なことが起きて金が必要になったのか。また、あの家に金を出さねばならなくなるのかと思うと、身体の底から重苦しい気持ちになる。


 その日、終業後の日付が変わる頃、スマホに九条の連絡先を表示させた。この番号を目にするだけで心が竦む。別れてからこの番号を使ったことはない。

(……もしもし)

久しぶりに聞く電話越しの声に、恋人と呼べた頃の九条の顔が不意に浮かんで心が揺さぶられた。

「な、中野です。遅くにすみません。今日はご迷惑をお掛けして、本当にすみませんでした――」
(私からもちょうど君に電話しようとしていたところだ。君の伯父と従妹のことなら、もう君は何も心配する必要はないから)

自分から切り出す前に、九条の方からそう言って来た。

「……え?」

それは一体、どういう意味だろうか。

「あの人たち、課長にご迷惑をおかけするようなことを言ったんじゃないですか?」

そんなこと、想像に難くない。九条に無理な要求をすることだって考えられる。

(だから何だと言うんだ? 私がそんなことで振り回されるとでも?)
「そういう問題ではなくて……っ」
(プイライベートでもビジネスでも、私がどれだけ修羅場を潜り抜けて来たと思っているんだ。君の親族に対して失礼かもしれないが、ああいう短略的で知性のない人間は私にとって相手にもならない)

そう言って九条はふっと笑った。その笑い方は、上司としての九条ではない二人だけでいる時のものだった。

(法律と警察という単語で少しきつく言いくるめたら、大人しく退散した。せっかく私が追い払ったんだ。君から彼らに余計な接触はしないように。君はただ、赴任の準備のことだけを考えていればいい)

溢れる感情の一つも言葉にできない代わりに、耳に当てていたスマホを強く握り締めた。

(ただ……)

スマホ越しの九条の声がわずかにくぐもる。

(社内では、何も無かったようにはいかないかもしれないな)
「結愛が言ったこと、ですよね……?」

少しの間の後、再び九条の声が耳に届いた。

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