冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜
(社内で、誰に何を聞かれても何を言われても、徹底して否定するか無視をしろ。こちらが認めない限り、それは噂でしかない)
自分だけではない。九条もあれやこれやと言われて、仕事がやりづらくなるのではないか。
「……でも、課長にも迷惑をかけちゃいますね」
そんなことを言ったところで何の意味もないのに、そう口にしてしまっていた。
(バカだな。さっきも言っただろ。私と君とでは人生経験が違うんだよ。この程度のことでダメージにはならない)
その言葉はきっと、九条なりの気遣いだ。別れた恋人であり部下である人間への、この人の気遣い。
(君にとっては、辛いこともあるかもしれない。でも、君は堂々としていろ。堂々とやるべきことをやればいい。分かったか?)
だったら、その言葉を忠実に守るのが九条への最大限の気遣いになるのかもしれない。
「はい。わかりました」
部下としていられる時間さえももう残りわずかだという事実には、目を向けないようにした。
翌日、いつも通り朝一番に出勤した。
次々と出勤してくる同僚たちの態度が、どこかよそよそしい気がする。
「中野、おはよう」
「あ、おはようございます――」
向かいの席に座る田所が出勤してきた。田所が席に着くなり言い放った。
「結局、そういうことだったんだなぁ。なぁ、中野」
「何がですか?」
ニヤリと口角を上げながら、その目はどこか怒りを帯びている。
「俺は男だから、そんな手は使えねーよ。いやあ、それにしても人生で一番驚いたかもしれねーわ」
「一体、何を言ってるんですか?」
田所がより声を張り上げた。
「おまえが女を武器にしたことも、九条課長が部下に手を出して公私混同したことも、びっくりだわ。あんな冷徹な顔して、ただの色ボケだったわけだ」
「田所さん」
いつの間にか出勤してきていたのか、丸山の声が飛び込んで来たが、それをかき消すように田所が畳み掛けた。
「女武器にしてプロジェクトに選ばれて、インドネシア赴任まで手に入れた。ほんと、すげーよ。そこまでするって、尊敬する」
「勝手なことを言わないでください」
じっと田所の目を睨みつける。
「勝手なこと? 俺が妄想して勝手に言ってるとでも思ってんの? 今、そこらじゅうで中野と課長の話題でもちきりだよ。本人だけが知らないって、どこまで呑気なの?」
周囲を見回す。視界に入った同僚皆が麻子から目を逸らした。
九条の予想通りだ。大勢の社員がいる前で結愛と治郎があれだけの騒ぎを起こした。噂が広まるのを止めることなど不可能だ。
「――おはようございます」
そこに、九条が出勤してきた。
今までのやり取りは聞こえていたはずだ。
膝の上の手をぎゅっと握り締める。
「……お、おはようございます」
ぎこちなく、課員たちが挨拶を返す。田所も流石に九条相手に毒を吐くつもりはないようだ。かと言って、聞こえていても構わないというように取り繕うこともない。これみよがしの大きなため息をついて、「コネがない人間はないなりに頑張らないとな、中野」と麻子に向けて投げつけるようにそう言った。
「――中野さん、今日、朝イチでミーティングありましたよね。俺、会議室の準備してきます」
「あ……いいよ。私、行くから」
気遣うように隣の席から丸山が声をかけてきた。その言葉に縋るように立ち上がる。この場にいるより、少し気持ちを落ち着けたい。
「そう……ですか?」
「うん。じゃあ、行ってくる」
席を離れる時、九条の姿が視界に入った。九条は変わりない。いつもと同じ。田所の言葉なんて意にも介さない。自分にもそんな強さがあれば。なければならないのに。
掛け出すように執務室を出た。
会議室に向かう途中、すれ違う社員からの視線を感じた。意識し過ぎているせいでそう自分が感じているだけなのか、本当に見られているのか。どちらにしてもいたたまれない。
「――ねぇ、聞いた?」
このフロアの給湯室に通りかかった時だった。女子社員の顰めた声が不運にも聞こえて来た。