冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜
「九条課長と部下の女性の話?」
「知ってる、知ってる! よりにもよって、一階のロビーで修羅場になって広まったとか、サイアクだよね」
ここでも――。
聞きたくないのに、この足は止まる。
「中野さんでしょ? ほんと、びっくりなんだけど。九条課長率いる超ビッグプロジェクトのメンバーにも選ばれて、その上、海外赴任も決まったんだって。そんなこと許されていいの? 有り得なくない?」
「真面目そうな顔して、すごいよね。どんな手使ったら、九条さんなんて落とせるの?」
「それにしても、あの九条課長がそんなことするなんて、ちょっとがっかりだわ。どんなことにも隙のない人だと思ってたのに」
この話題はどうしてもそこに行き着く。自分だけではない。九条の評判を落としてしまう。胸が締め付けられて痛い。
「じゃあ、河北さん……副社長のお嬢さんとは、どうなるのよ」
「あ……そういえば、九条さん婚約してるんじゃないの?」
社内では、そういうことになっていた。
「略奪ってことだよね。酷くない? 人の婚約者奪うとか、女としてサイテーだわ」
『女を武器にして出世を狙う女』という噂だけではなく『人の男を奪う略奪女』というレッテルまで貼られることになってしまった。
胃の痛みを感じながら会議室のドアを開ける。
「――もし、本当なら私、許せない」
会議資料をメンバー分揃えてデスクに並べていると、廊下から話し声が近づいて来た。
「課長も中野さんも」
それは、プロジェクトメンバーの女性、坂口の声だった。
「まだ、本当の話だと決まったわけじゃないだろうが。課長も中野も否定してたし」
「じゃあ、昨日現れた中野の従妹だって子が完全なでたらめを言ったって言うのかよ。あれは、確信もって言ってただろ」
山田の言葉を秋元が即座に否定する声が、段々と大きくなる。
「それに、中野に親がいないなんて知らなかったな。めっちゃ苦労人じゃん。だから、どんな手使ってでものし上がりたいって野心が強いのか」
「そんな言い方、ないんじゃないですか……」
丸山が秋元に抗議しながら会議室に入ってきた。
「中野さん……」
そして、麻子を見るなり慌てて口を継ぐんだ。
「な、中野さん、準備ありがとうございます」
「ううん」
丸山が必死に誤魔化すように、その表情に笑顔を作る。
「中野さん」
そんな丸山の前に坂口が立った。
「昨日のこと、本当に嘘なの? 課長とはなんでもない?」
単刀直入に問い詰める坂口に、プロジェクトメンバーたちが無言で視線をこちらに寄せる。
「はい。本当に課長とは何もありません」
真っ直ぐに坂口の目を見つめた。
「でもね、どうしても信じられないのよ。あんな風に課長を見るなりあなたの恋人だなんて言うかしら? そんな嘘をついて何の意味がある? 誰かと勘違いって、どんな勘違いよ」
「本当です。信じてください」
絶対に視線を逸らしてはいけない。強く手を握りしめて坂口の目を見た。
「私、中野さんのこと、同じ女性として本当に誇らしかったの。でも、もし課長と付き合ってたんなら、がっかりだわ。あなたにも課長にも」
そう吐き捨てて、坂口は麻子から視線を外した。