冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜
すみれ本人から流された言葉により、今度はより信憑性が付加されたものとなってあっという間に社内の陰口のネタとなった。
九条が社内で常に注目される人間であることも相まって、その噂は尾鰭をつけて大きなものになって。有る事無い事言われる。社内の女性たちにとって、麻子は完全なる悪女だ。
「私が受け持っていた担当分の進捗状況をまとめたものです。大体は丸山君に引き継いでいますが、資料としてプロジェクトメンバーにもお配りしてます」
坂口の元に出向き、資料を手渡す。
「あの……すみません」
聞こえていないのか、聞こえないふりをしているのか。坂口はPCのディスプレイに顔を向けたまま振り返ろうともしない。
「あの――」
「……何?」
坂口が心底嫌そうにこちらに身体を向ける。
「資料を――」
「ああ、赴任するための引き継ぎね? やっぱり中野さんのこと尊敬するわ。何を言われてもそうやって堂々と仕事できるんだもの。ああ、そうか。それくらい図太くないと海外赴任なんて勝ち取れないものね。資料なら、そこに置いておいて」
自分の言いたいことだけを吐き出すと、その身体はもうPCに向けられていた。
坂口だけではない。同じ課の女性は大抵同じような目を向けてきた。男性は腫れ物に触れるように接してくる。九条と仕事の話をするだけで、突き刺さるような視線を感じて萎縮する。
そんなことばかりで、次第に朝出勤しようとすると動悸が激しくなって吐き気をもよおすようになった。なんとか出社しても、胃の痛みが収まらない。
執務室の前で足が止まる。
まだ始業には時間がある。そのまま踵を返し、同じフロアにあるリフレッシュルームに向かった。
東京の街を見下ろす窓ガラスに身体を預け、大きく息を吐いた。
上京してからずっと、ただがむしゃらに生きてきた。寂しさも孤独も感じる暇がないくらいに、生きるのに必死だった。
なのに今はたまらなく孤独だ。
あと、少し。あと少しの我慢だ――。
「中野さん、大丈夫ですか?」
背後から丸山の声がした。その声が耳に届いた瞬間に身体に力を入れる。