冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜


「うん、大丈夫。今日は早いね。どうしたの?」

表情を取り繕い振り返ると、自分の真正面に立っていた丸山と目があう。

「本当は辛いんじゃないですか? 体調悪そうです。それもこれも全部、噂のせいでしょう?」

せっかく取り繕った表情さえも意味がないと、丸山は真顔でじっと見つめてきた。

「へいき、へいき。気にしてないから」
「平気なわけがないでしょう。中野さん、どんな風に言われてるのか知ってるんでしょう? 俺は知ってますよ」
「気にしてないって言ってるでしょ。じゃあ、私、部屋に戻る」
「待って」

丸山の横をすり抜けて行こうとした瞬間、腕を取られた。

「“副社長の娘から課長を奪って、自分の出世も果たした悪女“ だって。ほんと、バカバカしいですよね。 中野さんみたいな人が悪女になんてなれるはずないのに」
「離して」

強く握りしめられた丸山の手を剥がそうとしてもびくともしない。

「あなたがこれだけ酷く言われて、酷い仕打ちを受けてるのに、課長は何をしてくれましたか?」
「……え?」

思わず丸山の目を見上げてしまった。

「我関せずじゃないですか。いくらなんでも冷たすぎる」
「課長は関係ない――」
「課長があなたを守らないなら、俺に守らせてくれませんか?」

丸山が掴んだ腕を強く引き寄せる。

「俺と付き合ってることにしましょう」
「何、言ってるの? そんなことできない。丸山君まで巻き込めるわけないでしょ」
「俺はいいですよ。だって――」

腕を掴まれた手のひらに力が込められた。

「俺はあなたのことが好きなんだから」

いつも飄々としている丸山の目は見たこともないほどに真剣で、どこか苦しそうだった。

「俺の気持ち、わかってますよね。もっとちゃんとしてから、ちゃんと伝えたかったけど、今しかないと思いました。お願いです。俺に頼ってくれませんか?」

向けられた真摯な眼差しを、もう誤魔化すことはできなかった。丸山の気持ちも冗談にはできない。

「丸山君、ありがとう」
「じゃあ……っ」

パッと輝いた目に胸の痛みを覚えたが、はっきりと丸山に告げた。

「ごめん。誰かに守ってもらわなくちゃいけないほど可愛げのある女じゃないんだ。丸山君も聞いたでしょ? 私、親も兄弟もいないから、誰かに守られたりするの慣れてないし、自分のことは自分で守って生きて来た。今度のこともそうしたいと思ってる」

好きでもない人に寄りかかるような女にはなりたくない。
九条を知る前の自分は、どんなに辛くても一人で踏ん張って生きて来た。その時の自分に戻ればいいだけの話だ。

「中野さん……」

麻子の腕を掴んでいた丸山の手のひらの力が緩む。

「丸山君の気持ちには応えられないから、尚更頼れない。ごめん」
「あの人の代わりでもいいって言ってるのに?」

あの人……おそらく、丸山は九条と関係があったことに気づいているのだ。どうして気づかれたのか分からないけれど、気づいていて黙っていてくれていた。

激しく揺れる、前髪からのぞく丸山の目をまっすぐに見つめ返した。

「課長とは本当に何でもないの」

気付かれているのだとしても、そういい通す。

「丸山君は私にとって大事な仕事仲間。利用したりしたくない。自分の気持ちにも嘘はつきたくない」

丸山の手を自分の腕から離し、姿勢を正した。

「これからも、赴任するまでの仕事の引き継ぎよろしくね。後のことは全部、丸山君に任せるから」
「……わかりました。それだけはっきり言われたらどうしようもない」

傷ついたような丸山の笑みは、やっぱり胸をチクリと刺す。

「じゃあ、先に戻ってる」

丸山を残してリフレッシュルームを出ると、腕を組み壁にもたれて立っている美琴がいた。

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