冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜
プロジェクトも佳境に入っているというのに、プロジェクト内には不穏な空気が漂ったままだ。
ただしそれは、あくまで上司の見えないところでだ。表面上は誰もが責任を果たしている。そこは社運がかかっているプロジェクト。各メンバーは皆選ばれた人間で、プライドもある。
彼らの中の一部の人間が、表に現れないように小さく棘をさす。その一部の人間がこの空気を濁らせる。
「すみません。秋元さん担当分のデータまだ送ってもらってないみたいなんですが。損失分析のデータ集計の締め切りが迫ってるので早めに出してもらってもいいですか?」
「ああ……ごめん、ごめん。そっちにまで手が回ってなくてさ。今、提携銀行との融資の最後の詰めをしてんだ。悪いけど、中野の方でやっといてくんない?」
「処理できてない分ってどれくらいですか?」
「全部だけど」
「え……?」
全部って。担当分を振り分けてからきちんと期間は取ってあった。秋元担当分を全て今から処理するなんて、かなり厳しい。
「でも、これまで時間ありましたよね?」
「だから。こっちは、もっと大事な仕事してんの。今、言ったよね?」
秋元が椅子の背もたれに背を深く預け、麻子を見上げた。
「それに、中野くらい優秀なら、それくらいのデータ処理、朝飯前だろ? あの厳しい九条課長に認められて、赴任も勝ち取ったんだ。それくらいやってみせろよ」
それが秋元の嫌味なのだとわかる。
こうやって、麻子と一対一の時にだけ、本人にしかわからないところで嫌がらせをするのだ。
こんな嫌がらせに屈するつもりはない。
赴任の準備と引き継ぎ、それにプロジェクトでの自分の仕事がある。でも、やってやれないこともない。
多少睡眠時間を削ればなんとかなる。
赴任まで、残された期間はわずかだ。そのわずかな時間を耐えればいいだけの話だ。
何があっても、このプロジェクトを成功させたい。そして。九条に迷惑をかけたくない。このプロジェクトの責任者は九条だ。
やってやればいいんでしょう?
秋元に鋭い視線を送る。
「わかりました。その代わり。融資条件、最高のものを取り付けてください。では」
勢いよく頭を下げ、足早にその場を後にした。
自分の席に戻り、一瞬たりとも休むことなく仕事をし続けた。
数えるのも嫌になるほどの関係機関との連絡調整をしながら、大量に届いているメールの優先順位を決めその優先順位に沿って捌いていく。それに自分の担当分の仕事と秋元に押し付けられたデータ処理。その合間にも問い合わせの電話に対応する。
気づけば、オフィスの窓の外から太陽の存在は完全に消え去っていた。
「中野さん、少しは休んだらどうですか? 昼からぶっ通しで仕事してるでしょ」
隣の席の声で、初めて手を止めた。
「あ……今、何時?」
「9時ですよ」
「え……!」
もうそんな時間なのか。処理できた仕事の量が自分の理想より遥に下回っていることに絶望感を感じる。
「俺に、何か手伝えることないですか?」
あの朝のやり取りの後も、丸山は態度を変えることなく接してくれている。そういう意味でも丸山はいい男だ。この先、いい人が現れて欲しいと思うし、彼なら絶対に現れるだろう。
「大丈夫。丸山君だって、やるべき仕事山盛りでしょ? まずはそっちを処理して」
丸山も丸山で余裕なんてないのだ。自分の補佐なので誰よりそれを理解している。
「……でも」
「でもじゃない。そうじゃないと安心して引き継げないから。これは先輩からの命令です」
そう言うと、ようやく丸山は頷いた。
なんとか、終電には乗りたい。帰ったら、家の整理と手続きの準備もしておきたいからだ。
どれだけやることが多かろうと、時間は止まってくれない。丸山が席を外した隙に、大きく息を吐きこめかみを押さえた。
疲れた。
でも、そんな弱音は吐けない。吐きたくない。
身体的疲労も、居心地の悪いオフィスで過ごす精神的苦痛も。それが雪だるまのようになって自分の身体を押し潰そうとするけれど、絶対に負けたくない。
“若い頃の苦労は買ってでもしろ“とはよく言ったものだ。今のこの状況は結構悲惨だとは思う。
でも、やっぱり自分には根性だけはあるみたいだ。
「よし。やってやる」
自分の頬をパンパンと叩き、PCに向かう。
なんとか終電に飛び乗り、疲労困憊の身体をアパートへと連れて帰った。錆びた鉄の階段を上り自分の部屋のドアに目を向けた時だ。
「……どう、したんですか?」
疲れ過ぎて、幻覚でも見ているのか。自分の部屋の前に九条が立っていた。