冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜
コートの襟を立てたその姿から、真夜中の冷たい風の中にいたことをに思い至る。
「いつから、いたんですか?」
慌てて九条に駆け寄った。
「……そんなに待っていない」
「とにかく、入ってください」
何の用があって訪ねてきたのはかはわからない。
九条とこうして二人きりになることに緊張が走るけれど、とりあえず寒さから逃れなければと九条を部屋に招き入れた。
「散らかってますけど、どうぞ入ってください」
エアコンを入れて、何か暖かい飲み物を――。
「ここでいい」
「――え?」
パンプスを脱ぎ捨て、部屋に入ろうとした瞬間に引き留められた。狭い玄関で向き合って立てば、嫌でも九条と接近することになる。久しぶりの距離感に落ち着かない。
「もう遅い。時間は取らせない」
麻子を見下ろす九条の目が間近にある。こんなに近くからこの人の目を見るのはいつ以来だろう。
「今日も、仕事を押し付けられてたな。むやみやたらに手助けをするなと言ったのに……」
まだ、ただの部下と上司の関係だった頃、そう厳しく叱責されたことがあった。同じことを言われているのに、今目の前にある九条の目は厳しくも冷たくもなかった。その声も、労わるように優しいものだ。
秋元さんとのやり取りを気付かれていたんだ――。
「締め切りが迫っていたので、自分で処理することにしてしまいました。すみません。でも、この程度なら大丈夫なので。本当になんてことないですから――」
「ごめんな」
課長――?
勢いのままに身体を引き寄せられ、気付くと強く抱きしめられていた。
「君が、辛い立場に置かれているのは分かってる。君が悪く言われてるのも、同僚から辛く当たられているのも。なのに、庇ってやることも、助けてやることもできない」
久しぶりに触れられた。背中にある九条の手のひらが、その心を表しているみたいにぎゅうぎゅうに締め付ける。
「謝らないでください! そんなの、課長の立場なら当然のことです。私、傷ついたりしてません」
九条は気に病んでいたのか。
こんな夜に駆けつけてくれるほどに。
「こんなことになったのも、全部私のせいでしょ? 私の親族がしたこと。むしろ私の方が課長に迷惑かけてるじゃないですか。幹部からいろいろ言われてるって、聞きました。なのに課長は……っ」
面倒な女と関わったと、後悔されても仕方ない。九条が社内で築き上げて来た実績と人望を汚したのだ。
私が好きだなんて言わなければ、付き合うこともなかった。そうすれば、深く関わることもなかった。プライベートで迷惑をかけることもなかった。課長のキャリアに傷をつけることも――。
抱きしめる九条の腕を掴む。
「ごめんなさい。本当に、ごめんなさい」
「言っただろう? これまでどれだけの修羅場をくぐって来たかって。これくらいのこと、どうということもない。幹部の奴らをいいくるめるくらいの能力は持ち合わせてる。見損なってもらっては困る。だから、」
ひときわ優しくなった声が耳元で聞こえた。
「私のことは気にするな」
九条の腕が、包み込むように抱きしめてくれる。そのせいで、無意識のうちに張り詰めていた心が溶け出して。鼻の奥がじんとし出す。
「わかった?」
懐かしい手のひらが髪を撫でた。その触れ方がまた、涙を誘う。声に出したら泣いてしまいそうで、無言のままで何度も頷いた。