冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜


「……君が人一倍根性があるのは知ってる。無理をするなと言っても、限界まで頑張って一人で歯を食いしばるような人間だ。だから私は君が心配なんだ」

九条の匂いに包まれて、どうしようもなく感情が溢れる。優しい声ときつく抱きしめる腕が、ただの一人の女にしてしまう。いつもなら取り繕える強さが消えて、曝け出したくなるのだ。

「だったら、今日だけ。今だけ、もう少しだけこのまま抱きしめていてもらえますか? あと少しでいいから」
「麻子……」

そんな風に呼ばれるのも久しぶりで。もうこの胸の中で泣いてしまいたくなる。

「さっきまでは、どうってことないって思ってたけど、やっぱり少し弱ってたのかもしれません。今だけ課長の胸を貸してください。そうしたら明日からまた頑張れるから」
「……いいよ。いっそのこと泣いてしまえ」

九条の腕がより強く麻子を抱きしめた。

「一人で泣くよりずっといい。その代わり、明日からはもう泣くな。君が一人で泣いてるかと思うと、こっちがたまらないんだ」

もう、だめだ。この涙腺は崩壊する。

「……はい。もう、明日からは泣いたりしません」

その胸の中で泣きじゃくった。
溢れ出た涙の理由が、会社でのことだけじゃないのは秘密だ。

『今後、仕事のことで無理を言う奴がいたら私にすぐに伝えろ。業務はこちらで調整する。君は赴任のための引き継ぎと準備をしっかりすること。それが、今君に一番必要なことだ』

 そう告げて、九条は帰って行った。
 一人残った狭い玄関で、九条の残り香と体温を感じて。たまらなく想いが溢れてしまう。

 辛くて自分から離れた。なのに、こんなにもまだ心は揺さぶられるままだ。

『今は無理でも、東京を立つ前にもう一度自分の気持ちを九条課長に伝えてみたら?』

美琴が言っていた言葉が脳裏を過ぎる。

インドネシアに赴任したら、人の目を気にする必要がなくなると。

 美琴に言われた時は、そんな自分勝手なことは出来ないと思っていたのに。こうして九条が訪ねて来てくれたからと、すぐに決心が揺らぐなんて、調子が良過ぎる。

でも、果たして本当に、このまま離れてしまうことが出来るのか。


 それからは、九条が、仕事の進捗により目を光らせるようになった。
 それは、決して、麻子だけを特別に配慮するものとは思わせない、自然なものだった。

 社内で顔を合わせる九条は、やはり課長としてのものだった。まるであの夜が、幻だったみたいに。
 でも、はっきりと表しはしない九条の気遣いが、まだ自分と九条を繋げているのだと思わせてくれていた。

プロジェクト内で自分のやるべきことを終え、インドネシアに赴任する前に、もう一度九条に会いに行ってもいいだろうか。

そう、心の中で思い始めていた時のことだった。

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